
上の写真は防腐処理した「奇跡の一本松」を立てる作業をしているところである。私は新幹線に乗っていてこのニュースが流れたのを見たのだが、
「「奇跡の一本松」よみがえる」というようなテロップが流れて、飲みかけのコーヒーを吹きそうになった。どうも各紙、同じような見出しを出していたようで、後でネットで調べたら読売新聞も、「
よみがえった…「奇跡の一本松」復元作業」となっている。
しかし、どうかんがえても防腐処理した幹に、プラスチック製の枝をつけたものをクレーンで立てて、
「よみがえる」
というのは言葉の使い方がおかしい。たまたま前に鉄筋コンクリートの建物があって津波を奇跡的に生き延びたこの松を「奇跡の一本松」と呼んで「復興のシンボル」にすること自体も気になるのだが、明らかにこの松は枯死したのであり、その幹を繰り抜いて防腐処理したのであるから、死んだままである。死んだままの樹をおっ立てて、「よみがえる」と呼んではいけない。どこまでやってもそれは、死体を無理やり立たせているだけなのであって、よみがえったのではない。
読売の記事によれば、
作業を見守った市民団体「高田松原を守る会」の鈴木善久会長(68)は、「皆さんの温かい気持ちでここまできた。住宅の再建が進まないなど復興は遅れているが、再び被災者を元気づけてほしい」と話した。とのことであるが、松の死体を見て、果たして被災者は「元気づけ」られたりするのであろうか。それはせいぜい中身が抜けた「空元気」が出るくらいのものではないだろうか。しかもこのプロジェクトに続々と寄付金が集まっている、というのも不気味である。
どうもこれは、何かがおかしい。何がおかしいのか考えてみて、この奇跡の一本松は、日本社会全体の象徴になっているのではないか、と思い当たった。日本社会全体が、世界経済の構造変革や少子高齢化の波に飲まれて、崩壊寸前になっている。これではいかん、ということで、数年前に政権交代までやった。ところが事態は一向に改善されない。そこで、「アベノミックス」で「ズッポンをトレモロす」と言う安倍氏率いる自民党に希望を託する始末となった。
しかし、既に日本は死に体である。その死に体の日本に、輪転機を回してじゃぶじゃぶとお札を突っ込んで「トレモロす」というのは、どこからどう見ても無理な相談である。ところが、円安になって(ガソリンが値上がりし)、(外人投資家の投機的買い越しで)株価が上がると、マスコミはすっかりズッポンがトレモロされた、という調子である。
この素っ頓狂ぶりと、「奇跡の一本松」が<よみがえった>という言葉の使い方は、構造的に一致している。ズッポンがトレモロされた、トレモロされた、と平気で書いているマスコミにとって、「奇跡の一本松」が<よみがえった>というのは、何の不自然さも感じない、というのは実に筋の通った話である。それゆえ、この不気味な奇跡の一本松のフランケンシュタインのようなものを見て「元気がでる」というのも、当然のことなのである。なぜなら、アベノミックスで日本が「元気なった」と思うくらいだからである。「元気」というのは、そもそも「空元気」のことだったのである。
さて、そこで『先祖になる』である。
奇跡の一本松のフランケンシュタインを建築中の場所から程遠くないところに住む、佐藤直志(77歳)は、津波で家をやられたばかりか、息子(47歳)を失った。消防団員の彼は、わざわざ低い場所に行って動けない人を助けようとして、津波に飲まれたのである。
佐藤が若い頃に自分の伐った樹で、気仙沼大工に建てさせた家は、2階まで浸かったにもかかわらず、かろうじて残った。それこそ奇跡でもある。彼は、避難所や仮設に行くことを拒否してその家の二階に住み続けた。そして、自分で伐り出した樹で、家を建て直することにしたのである。『先祖になる』は、そのドキュメンタリーである。
なぜそんな大変なことをもうじきあの世に行く老人がやろうとするのか、というと、そうやって家を建てる者がいれば、やがて人は降りてきて、家を建て、何十年か先には町が復興するはずだ、と考えたからである。全ての建物が失われたこの町に、最初の家を立てて住めば、それは「先祖になる」ということだ、というのである。
佐藤直志と、彼の建てる家は、フランケンシュタインではない。それは現実の生きた復興のシンボルである。そして、その生き様を描いたこの映画こそは、人々を元気づけるに十分な優れた作品である。それは単に被災者を元気づける、というだけでは済まない。人口構造が大幅に歪み、経済がズタボロになったばかりか、福島原発事故で広範囲に放射能をばら撒かれて、満身創痍になった日本社会に住み、「元気」などはとうの昔に失って「空元気」しか出なくなり、そればかりか「空元気」こそ「元気」だ、という倒錯を生きるようになった多くの人々に、本当の元気を、本当の幸福を、本当の喜びを、本当の友達を、本当の信仰を思い出させる、そういう映画なのである。
生きるためにいま必要なのは、こういう映画である。
※追記: 池谷さんによると、どうもこの映画はこれだけ称賛されているのに、赤字になりそうだ、とのことである。奇跡の一本松には喜んで寄付するけれど、この映画には金を出さない、というのは、日本の精神構造の直接的反映である。映画を見よう。見る隙がないなら、切符だけでも買ってくれ。
※追記2: 書いたあとで気づいたが、我々がなすべきことは、「ズッポンをトレモロす」ことではなく、この日本列島の「先祖になる」ことなのだ!これを我々の政治思想とすべきだ。それを佐藤直志は我々に教え、池谷監督はそれを伝えた。
※追記3: 佐藤直志が伐る木々もまた、津波でやられて枯死した、枯死しつつある木であり、聞くところによると、森林組合はこれはもはやチップにしかならない、と言ったそうで、それで佐藤は、そんな馬鹿なことはない、だったら俺が家を建てるのに使う、と言い出した、という経緯があるらしい。いずれにせよ、奇跡の一本松と同じように枯死した木であるが、佐藤はそれを生かして、家を建てようとしたのである。それはフランケンシュタイン化ではなく、正しい「生かし」方である。
※追記4: 佐藤は、どんな家を建てようとしたのか、果たして、津波に飲まれた町に家を建てるという、池谷監督でさえ「そりゃ、無理だ」と思ったプロジェクトは、成功するのかどうか。知りたい人は、映画館に行こう。劇場案内は、こちら。↓
http://www.senzoninaru.com/theater.html※追記5: これもあとから気づいたのだが、安倍氏のCMをもう一回見ると、「ズッポン」よりも「イッポン」と言っているように聞こえる。本当は何と言っているのか、難しいところであるが、「イッポン」だとすると、「奇跡のイッポン松」と被る。まさしくこのプロジェクトは「イッポン(松)をトレモロす」プロジェクトなのであり、それゆえ、あんなに寄付金が集まるのであろう。
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- 2013/04/06(土) 20:23:11|
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「ズッポンをトレモロす」とは、どういう意味ですか?
- 2013/04/07(日) 22:48:07 |
- URL |
- きよ #-
- [ 編集 ]
> 「ズッポンをトレモロす」とは、どういう意味ですか?
え?!
読んでもわかんないの?
そりゃすごいなぁ。
- 2013/04/07(日) 22:56:42 |
- URL |
- yasutomiayumu #-
- [ 編集 ]