「魂の脱植民地化」研究の成果を、青灯社さんが、蛮勇を奮って、刊行してくださることになった。社運をかけた大事業なので、
売れないと頓挫しかねないので、何卒、ご支援のほどお願いしたい。この機会に
新聞をとるのをやめるか、
テレビを消してNHKの受信料を払うのをやめて、この叢書を毎月購入していただけると、生きる上でお役に立つ、と信じている。
【刊行のことば: 安冨歩・深尾葉子】何かを知りたいという、人間の本性の作動は、知ろうとする自分自身への問を必然的に含む。対象への真摯な探求を通じて、自らの真の姿が露呈し、それによって更なる探求が始まる。これが知ることの本質であり、これによって人は成長する。この身体によって実現される運動を我々は「魂」と呼ぶ。
この作動の停止するとき、「知」は単なる情報の集積と抽出へと堕落する。記述された情報の明示的操作に、知識の客観性を求めようとする「客観主義」は、魂の弱さの表出に過ぎず、その惰弱が知を堕落させる。対象に関する情報のみを記述し、自らの存在を押し隠すことは、客観性を担保するものではなく、実のところ、自己を傍観者という安全地帯に置く卑怯に過ぎない。この堕落が「魂の植民地化」である。植民地化された魂は、自らであることに怯え、罪悪感にまみれて暴走する。
「魂の脱植民地化」とは、この<知>の円環運動の回復にほかならない。それは、対象への問いを通じて自らを厳しく問う不断の過程であり、修養としての学問という、近代によって貶められた、人類社会の普遍的伝統の回復でもある。「魂の脱植民地化」研究は、この運動を通じて、魂の作動を阻害する暴力を解明し、その解除を実現する方途を明らかにしようとする学問である。
そのために必要なことは、問う主体を含んで展開する、対象との応答全体の厳密な記述である。それこそが、読む者にとって有益な、真の意味での客観的記述ではあるまいか。
『魂の脱植民地化叢書』はそのような客観的記述のために刊行される。
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- 2012/09/25(火) 21:52:30|
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