さて、謝らないでいて、謝ったフリをしたあとに香山氏は、「とても個人的」という興味ふかい話に移る。この部分が、このブログのハイライトである。
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とても個人的な話になるので、うまく補足になるか、さらに批判を招くものか、自信がないのですが、よろしければお読みください。
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はい。
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原発事故が発生して以来、放射線医学の専門家でもない私ですが、なんとか精神医学という自分の専門性を生かして、原発の危険性や脱原発の必要性を訴えることができないかと、ずっと考えてきました。
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ここが私にはよくわからないところである。私は、原子力のな~んの専門家でもないが、別にこの問題に対して発言することに躊躇はしなかった。もちろん、私なりに色々調べて考え、それ以上に自分を誤魔化していないかどうかはいつも気を付けているが、それ以外には何も制約はない。
「なんとか精神医学という自分の専門性を生かして、原発の危険性や脱原発の必要性を訴えることができないか」
というスタンスは、
(1)「脱原発」 vs 「原発推進」 というようにまず「立場」を設定する。
(2)各々の立場の人の意見を色々聞いて、どれが一番自分のキャラにピッタリか考える。
(3)「立場」を決めたら、その立場にふさわしい意見の人には賛成し、反対の立場の意見には反対する。
という思考パターンに沿って考えると、その先に、
(4)自分の「専門性」を活かして立場に沿った発言をする。
というものがあっても良さそうである。どうも、こういうふうに物事を考えているようである。
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しかし、そう考えて原発について情報を集めたり基礎的な知識を学んだりしようとすればするほど、自分の関心が本質からずれて行ってしまうのを感じていました。つまり、原発問題を純粋に考えていたところ、この原発問題を含む領域の広さにひとつの小宇宙を感じたひとりは、他ならぬ私だったのです。この当初の使命感を超えて関心を示している自分の心理は何なのか。これが出発点でした。
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この「自分の関心が本質からずれて行く」というところがポイントである。彼女が「本質」と言おうとしているのは、上の(4)である。つまり、自分の専門に立脚し、立場に応じた発言をするのが、本質なのである。
ところが原発について勉強すると、この(4)から関心がずれていくのである。どこにズレていくのかというと、ここを切掛とした、物理学をはじめとする諸学の絡みあう複雑な知識の体系を学ぶ悦びに目覚めてしまう、というこなのだと思う。これを香山氏は、
「原発問題を含む領域の広さにひとつの小宇宙を感じた」
と表現している。美しい表現だと思う。これが学問というもののもつ、神秘であり、歓喜であり、悦楽である。これこそが、人を、真理の探求に導くものなのである。それゆえ、
「この当初の使命感を超えて関心を示している自分の心理は何なのか。これが出発点でした。」
という香山氏の問はすばらしい。そしてその答えは明らかである。
「それは真理を探求する、という人間の崇高な衝動である。」
私はそう答えたい。
ところが話はここから恐るべき展開を見せる。
(つづく)
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- 2011/07/13(水) 12:16:29|
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