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マイケル・ジャクソンの思想

福島原発:小佐古参与の辞任会見と、原爆症認定集団訴訟の証言とのダブルスタンダード

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小佐古教授が原爆症の裁判と今回の事故に対して、ダブルスタンダードを適用していないとすれば(そんなことをすれば「学者生命は終わり」です)、

★原爆よりも、今回の事故のほうが、遥かに被曝が大きい

ということを意味してしまいます。
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と先程の記事で書いたのだが、下の毎日新聞のより詳しい報道を見ると、「学者生命が終わっている」ような気がする。どう見ても、ダブルスタンダードなのだ。

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記者会見には民主党の空本誠喜衆院議員が同席、「同僚議員に20ミリシーベルトは間違いと伝えて輪を広げ、正しい方向に持っていきたい」と語った。空本氏は小沢一郎元代表のグループに所属
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ということなので、「菅おろし」の一環として、小佐古教授は小沢派に貸しを作ることにしたようだ。端的に言って、「ヒューマニズム」と称して福島の子供たちの深刻な被曝という事態を利用している。

もし、本当に少しでも「ヒューマニズム」というものがこの人物にあれば、原爆集団訴訟で、数多くの高齢の原爆症に苦しむ患者の方々を前にして、残留放射能と内部被曝を無視したシステムを、平然と擁護することなど、絶対に不可能だと私は思う。特に、下に添付したような壮絶な被爆経験に基づいて研究し、集団訴訟で証言した沢田昭二名古屋大名誉教授と、碌な科学的根拠もなく、正面きって対決するなどということは、決してできない。

尚、沢田昭二教授の福島原発に関する発言が以下に出ていた。

http://peacephilosophy.blogspot.com/2011/04/blog-post_20.html

小佐古教授が、本当にヒューマニズムに基づき、学者の良心にしたがって今回の発言をしたというのなら、原爆症認定集団訴訟でした証言を取り消し、裁判所で偽証した罪を認めて自首すべきである。それなら私は、本当に、心から、小佐古教授を尊敬する。

小佐古教授は、福島の子供たちの命を救うための鍵を握っている。


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原発:内閣官房参与、抗議の辞任

 内閣官房参与の小佐古敏荘(こさこ・としそう)・東京大教授(61)=放射線安全学=は29日、菅直人首相あての辞表を首相官邸に出した。小佐古氏は国会内で記者会見し、東京電力福島第1原発事故の政府対応を「場当たり的」と批判。特に小中学校の屋外活動を制限する限界放射線量を年間20ミリシーベルトを基準に決めたことに「容認すれば私の学者生命は終わり。自分の子どもをそういう目に遭わせたくない」と異論を唱えた。同氏は東日本大震災発生後の3月16日に任命された。

 小佐古氏は、学校の放射線基準を年間1ミリシーベルトとするよう主張したのに採用されなかったことを明かし、「年間20ミリシーベルト近い被ばくをする人は原子力発電所の放射線業務従事者でも極めて少ない。この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたい」と主張した。

 小佐古氏はまた、政府の原子力防災指針で「緊急事態の発生直後から速やかに開始されるべきもの」とされた「緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI)」による影響予測がすぐに運用・公表されなかったことなどを指摘。「法律を軽視してその場限りの対応を行い、事態収束を遅らせている」と述べた。

 記者会見には民主党の空本誠喜衆院議員が同席、「同僚議員に20ミリシーベルトは間違いと伝えて輪を広げ、正しい方向に持っていきたい」と語った。空本氏は小沢一郎元代表のグループに所属する一方、大震災発生後は小佐古氏と協力して原発対応の提言を首相官邸に行ってきた。菅首相は大震災発生後、原子力の専門家を中心に内閣官房参与を6人増やしている。【吉永康朗】

 ◇「子ども20ミリシーベルト」専門家も賛否
 政府は国際放射線防護委員会(ICRP)が原子力事故の収束段階で適用すべきだとして勧告した年間許容量1~20ミリシーベルトの上限を根拠に採用。1日8時間を屋外で過ごすとして子どもの行動を仮定した上で、放射線量が年20ミリシーベルトを超えないよう、毎時3.8マイクロシーベルト以上の学校などで屋外活動を1日1時間に制限する通知を文部科学省が19日に出した。

 文科省は「余裕を持って決めた基準で、実際に年間20ミリシーベルトを被ばくすることはない」と説明するが「子どもを大人と同様に扱うべきでない」として他の放射線の専門家からも異論が出ているほか、日本弁護士連合会も反対声明を出している。

 ICRP主委員会委員の経験がある佐々木康人・日本アイソトープ協会常務理事は「政府は厳しい側の対応をとっており、影響が出ることはない」と理解を示す一方、「被ばくを減らす努力は必要だ」と指摘する。【西川拓、永山悦子】

毎日新聞 2011年4月29日 21時08分(最終更新 4月30日 1時15分)

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http://www.jcp-toyota.org/diary/090415-085100.html

【09.04.14】沢田先生の被爆体験


 私の尊敬する沢田昭二先生(名古屋大学名誉教授)の被爆体験をご紹介します。先生は、原水爆禁止愛知県協議会の理事長として活躍されていますが、親しくおつきあいさせていただいています。(画像は、今年2月の愛知県原水協の定期総会であいさつする沢田先生)

 は る か に 呼 ぶ 母 の 声
                        沢田 昭二
 「早く逃げなさい」
 「ごめんなさい。おかあさん」
 迫ってくる炎の中で、母とかわした最後のことばは、今も私の耳の中に、そのまま残っている。
 原子爆弾が広島に投下され、母を失ったのは、私が中学二年の時、母は三十六だった。
 母はからだが丈夫な方ではなかった。むしろ、よく病気をしていた。しかし、いま思いかえしてみると、しっかりした女性だったのではないかと思う。戦時中のことだから、何もとりたててごちそうをするわけではなかったが、父や母の郷里から広島に来て働いていた若い人たちが、つぎつぎと母を慕って遊びに来た。私たちの教育にも細かく気を配っていたようだが、直接、机のそばに来てくちばしを入れてはこなかった。どうやら、近ごろの教育ママのようでもなかったらしい。そのために、私は学校の成績など気にかけず、好きなものだけのびのびと勉強することができた。
 戦争が激しくなってきて、配給の食糧は少なかったけれど、父は不思議に徴兵から逃れていたし、限られた中での幸福な暮らしが、しばらくは続くように思えた。
  火が迫ってくる
 原子爆弾が炸裂したとき、母と私とは同じ部屋にいた。同じ部屋にいて私は眠っていた。ピカッと光ったのも、倒壊した家の下敷きになったのも、全く知らぬ一瞬のでき事であった。折り重なる壁土や材木の中から、やっとのことで這い出したところは、あたり一面、黄色い空気の立ちこめた、不気味な廃墟の世界だった。ところどころ小さな炎が燃えていた。
 茫然として立ち上がったそのとき、はるか下の方から私の名を呼ぶ母の声がした。距離がそんなにあるはずはないから、潰れた屋根や、幾重にもかさなった壁土が声をさえぎっているらしかった。母は足を太い梁か柱に挟まれて、動きがとれないでいることがわかった。折れた柱を引き抜こうとした。壁土をめくりとろうと力いっぱい押し上げてみた。しかしとても手に負えなかった。おとなに助けを求めたがだめだった。負傷した人びとは逃げ出すのが精いっぱいであった。
 はじめは小さく燃えていた炎は、次第に大きく広がってきた。あたりに火が迫ってきたとき、 
 「あきらめなさい。かあさんはいいから、早く逃げなさい」
遠いが、きっぱりとしたこの言葉が、私に母を残して立ち去る覚悟をさせた。
 跡かたもなく破壊された建物の屑が折りかさなって、道路はなかった。瓦や板ぎれや壁土の上を歩き、川を泳いで川原にたどり着いた。川原に突っ立ったまま、炎に包まれた天を見た。煙は雲につながって頭上をおおっていた。そしてその下にいる母を想像して、はらわたがちぎれる思いがした。
 「何とかして助け出すことはできなかったか?不可能ということはなかったはずだ」
 無念と悔悟の涙が目にたまった。
 母のことを思い浮かべるそのたびに、二十余年を経た今も、変わらぬ同じ思いに、一度は沈んでしまう。
   原子物理学を学んで
 戦争が終わり、世の中は一変した。科学と技術の発展はとくに目覚ましかった。私たちの生活を科学の成果から切りはなして考えることはできなくなった。母が生きていて、今の暮らしを見たら何というだろう。そう思うと、またしても、母を助け出せなかったことが残念でたまらなくなる。
 その後、原子物理学を学び、原子核物理学の研究をするようになった私は、科学の発見した真理を、人類の福祉と平和のためにのみ役立たせるために、科学者に課せられた責任が大きいものであることを知った。原子爆弾よりもはるかに強力な水素爆弾が生まれ、核兵器によって戦争を抑止できるという幻想から、とどまるところを知らぬ核武装競争が今日まで続いてきた。この核兵器を背景に、今なおベトナムでは皆殺し戦争が行われている。罪のない母や子がボール爆弾で殺され、ナパームの炎で焼き殺されている。人類が、核兵器による共滅の危機から抜け出すためにはこうした戦争そのものをなくさなければならない。そのために、戦争の真の原因が何であるか、戦争を求め、核兵器を必要とするものは何であるかをあばき出さなければならない。核兵器の使用を抑えてきた力が、真に平和を求める人びとの一致した意志であることを確認し、平和の力が戦争の力に打ち勝つまで強められねばならない。こうしてはじめて、ふたたび原子雲の下の生き地獄の中で、母と子が悲痛な声で呼びあうことをなくすことになる。
 夏を迎え、身動きもできぬまま、炎につつまれていった母のことを思い浮かべるたびに、このことを痛感するのである。
                   (『子どものしあわせ』1968年8月号より)
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  1. 2011/04/30(土) 18:07:28|
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