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とても分かりやすかったのですが、この元となっている訳は、意訳の度合いを越えているのでしょうか?
失礼ながら自分はまだ高校生なのですが、多少解釈を入れて訳してもいいのでは(特に歌詞では)と思っているところがあるので、この泉谷さんの訳もパッと見、間違いではないかなと思ってしまうところがあるのです。
確かに先生がご指摘されているように文法的に間違っている箇所は多くあり、勝手な解釈を含んでいるとは思うのですが、この訳はマイケルの尊厳を汚す程の訳なのでしょうか?
異を唱える訳ではありませんが、解釈はそれぞれ違っていても仕方ないことで、この方がマイケルを汚すように適当に訳を書いたとも言い切れない気がしまして…。
僕の知識不足なのでしょうが、
意訳というのは、どの程度まで許されるのでしょうか?
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この質問に対して私は以下のようにお答えした。
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翻訳とは何か、という問題ですが、それは外国語の文章を読んで、理解したことを、正確に母国語で表現する、ということだと考えます。この場合、「どれだけ原文を理解したか」「どれだけ正確に母国語で表現しえたか」が問題になります。
いわゆる「意訳/直訳」という概念はこの観点からすると、そもそも少しおかしいのです。外国語の単語をそのまま母国語に置き換えることを「直訳」と言いますが、それでは意味は通じません。これに対して「意訳」というのは、「原文を無視して適当に訳すことの正当化」という意味に過ぎないことが多いのです。
このような使い方の場合、「意訳」も「直訳」も、誤訳です。ですから「許される意訳の範囲」というものはありません。そういう考え方がそもそも間違っているのです。
泉山氏の場合、「意訳」という言い訳すら通用しないような、ハチャメチャな訳だと私は判断します。なぜかというと、原文への尊重が感じられないからです。これは原作者に対して失礼なので「冒涜」と表現しました。
尚、私も「直訳」と言う言葉を使うことがありますが、これは、「日本語に訳し切れない表現なので、そのまま訳して、あとで説明します。」というような意味です。
たとえば "the scales drop from one's eyes " という表現を考えましょう。この表現は、元々は日本語にありませんでしたから、「目から鱗が落ちる」と訳すのは「直訳」で意味が通じませんでした。
しかしそれに関する説明が浸透したので、現在ではもはや意味が通じるようになりました。そうすると、これは直訳ではなく、立派な翻訳になっています。
つまり、「許されるかどうか」は、原文に敬意を払っているかどうか、の姿勢について問われます。
訳す以上は、敬意を払わねばならず、敬意を払えないような文章は訳してはいけないのです。後者をやると「冒涜」になります。敬意を払ったけれど、外国語が下手でうまくやくせなかったときは、ごめんなさい、です。
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さて、この観点から「泉山訳」と「大西訳」とを比較してみよう。
"the scales drop from one's eyes "
という例で言えば、
「目から鱗が落ちる」
というのが「正しい直訳」とすれば、
「思い込みを打破される」とか「蒙を啓かれる」
とかというのが「正しい意訳」である。どちらも原文を尊重した正しい訳である。これに対して、
「目から定規が落ちる」とか「目から秤が落ちる」
と訳すのは誤訳である。誤訳であるが、「わからなくてごめんなさい」という感じはする。大西氏の訳にある誤りはこういう感じである。一方、
「スケールの大きなアメ玉のような、つぶらな瞳だね」
とか訳すのは、ハチャメチャである。真面目に原文を読む姿勢が感じられない。泉山氏の訳は、こういう感じである。これで翻訳料とか版権をとってレコードを買った人に読ませるのは、ほとんど詐欺である。
私はマイケルの曲を訳すとき、いつも大西訳を参照する。私がわからないところを正しく解釈しておられることがあるからである。全訳は疲れるので、できたら「大西訳を見てください」で済ませたいのだが、掘り下げていくと、残念ながら多少の誤訳がある。それ以上に、曲の受けとめかたが全然違うので、微妙な表現の違いにそれがあらわれるので、やむを得ず、自分で訳すことになってしまう。
そういう経験からして、大西訳については以下のように考えている。
(1) 大西氏の訳には原文への敬意が感じられる。
(2) 氏は、原文の意味を正確に汲みとろうとして全力を挙げている。
(3) マイケルの作品を受けとめることで、自分の考えや感情を動かす用意があると感じる。
(4) しかも、完全にボランティアでなさっておられる。
それゆえ大西訳は、誤訳を含むとはいえ、全体としてマイケルを愛する人々が、その曲を鑑賞する上での大きな手助けになっていると思っている。
これに対して泉山訳はどうか。この訳は、翻訳を試みる際に、何の参考にもならない。それどころか、変な思い込みにつられて、読み間違える危険がある。これに限らず、ジャケットについている訳詞は一般にひどいものが多いので見ないことにしているが、そのなかでも泉山氏の Cry は格別にひどい。
(1) 泉山氏には、原文への敬意が感じられない。
(2) 氏は、原文を材料にして適当な日本語を嵌め込んで「仕事を片づけ」ようとしている。
(3) マイケルの作品を単なる「気分転換」としか受けとめていない。
(4) つまり、自分の世界観や感情を一切動かそうとしておらず、それに合わせるように歪めている。
(5) そのうえ、この仕事でかなりのお金をもらっている。
そういうわけで、私はこの訳詞をマイケルへの冒涜だと感じている。金をもらってやるなら、英語と日本語とに暁通した人に、金を払ってチェックしてもらう必要があると思う。それをやっていれば、こんなひどものにはならなかったであろう。その意味でも完全な「手抜き」である。しかも、何度も増刷されているのだから、直す機会はいくらでもあったはずだが、それをやっていない。これは「ごめんなさい」をしていないことを意味する。
更なる問題は、これが泉山氏にとどまらず、日本語版の歌詞カードの大半に及んでいる、ということだ。相当の歌詞が、同じ水準のひどい訳である。これは、もはや訳者だけの問題ではなく、ソニーのやりかたがおかしいことを意味している。聞くところによると、ポップの訳詞やライナーノートは、どれもこれも似たようなとんでもない水準のものらしい。CD業界自体が音楽家とファンとをナメているということになろう。
(つづく)
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- 2011/02/05(土) 20:00:00|
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確かに、洋楽の歌詞対訳については、目を覆いたくなるようなひどいものがある。クラシックの場合はここまで酷くないように感じます。
思うに、洋楽の訳詞には、優れた映画字幕に見られるような情熱とセンスが必要なのだと思います。
- 2011/02/06(日) 01:33:00 |
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- タクパパ #79D/WHSg
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