深尾葉子著
魂の脱植民地化とは何か (叢書 魂の脱植民地化 1) に対して、アマゾンのコメント欄にきわめて興味深い文章が出ていた。日本社会における魂の植民地化を理解するサンプルとして貴重なので、解析しておきたい。
「議論が足りていない, 2014/4/29」
というタイトルで、評価は☆☆である。以下で全文引用しながら解析する。
まず、
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本書では、ある人が周囲から押し付けられた、かつその人が(往々にして無意識のうちに)受け入れている
価値観、思考方法(これを魂に覆いかぶさる「蓋」としている)にその人自身を捕らわれている状態を
「魂の植民地化」、「呪縛」と呼び、そこからの解放を「魂の脱植民地化」としている。
その上で、具体的な例として、著者本人の体験(ほぼ来歴と言って良いものになっている)や、
大学のゼミでの学生の発表、また、別途福島の原発事故後に自主的に避難した人残った家族との葛藤等を
取り上げ論じている。================
と、内容が「客観的」にまとめられる。既にこの段階で、なんだか気持ち悪いのである。星2つという否定的評価を下すような本に、懇切丁寧な説明をつける人は少ないだろう。どんなに嫌いな本でも、こういう手つきで内容をきちんとまとめる、という作法が、学会雑誌の書評欄のようであり、既に素人とは思えない。ところが、次の段落で「素人の私」という言葉が出てくるのが、気持ち悪いのである。「素人のフリをしている玄人」なのではないだろうか。
また、これだけバランスに配慮しながら紹介しているのに、なぜか本書の白眉とも謂うべき、『ハウルの動く城』についての議論が抜けている。これを抜かすと、個人的体験のみに依拠して議論している、という印象を与えることになる。こういう微妙な印象操作もまた、学術雑誌の書評欄で駆使される、私には馴染みの嫌がらせの技術である。
続けて、
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個人的に納得がいかない部分があるが、全部あげるとキリがないがひとまず以下を挙げておく。================
これも良くある学術雑誌書評欄の表現方法で、実際には1つか2つくらいしか問題点を見つけられなくても、「ひとまず」と称して1つか2つの問題点を論い、それによって、問題だらけであるかのように思わせる、という手口である。
具体的に挙げている問題点は、
1、魂とは何かという議論が無い
2、「呪縛」の定義
の2つだけである。
最初の問題点について、次のように言う。
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1、魂とは何かという議論が無い
本書を通して魂とは、生まれながらの(モデルの立て方からみてなおかつ外部に影響されない不変)
人の本性という意味で使われているものと思われるのだが、そのあたりの議論は無い。
読んだ人間が納得するか否かは別として最低限の議論なり定義なりは必要と思う。
冒頭のスピノザやフロムの言葉だけ断っているつもりかもしれないが素人の私には厳しく、
本書を読んでいて終始違和感を拭えなかった。================
しかし、常識的に考えて、「魂とは何か」を正面から議論したら、それは学術書ではなくなる。オカルト書になるだろう。「魂の脱植民地化」の研究戦略は、神秘は神秘として受取り、尊重し、その神秘的な生きる力を破壊するものを、厳密に科学的に議論する、というところにある。(詳細は安冨歩『合理的な神秘主義』)
それゆえ魂は当然ながら定義されず、その作動を破壊するものの探求に焦点が当てられる。このような方法論の明示が、本書ではなされていない、というならまだ話はわかる。
次に、2番めの「問題点」である。
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2、「呪縛」の定義
呪縛に関する上記の定義に対して、「捕らわれている本人が苦しんでいる」くらいは付けておいた方が
良い様に思う(本書で見た限りでは上記以上の定義の絞りは行っていないように見える。)。===============
これがこのコメントの「白眉」である。この人は、
「捕らわれている本人が苦しんでいないなら、それは呪縛ではない」
と主張しているわけである。これは重要な論点である。
この記述を見て私は、文化人類学の基本的タブーを思い出した。彼らが研究の対象としている「文化」と称するものは、まさに「とらわれている本人が、あたりまえだと思い込んでいて、苦しいと自覚していない呪縛」である。「文化相対主義」という文化人類学の基本的なイデオロギーに従えば、社会によってそれぞれにそういう「苦しくない呪縛」があって、それを他の社会の人間が見て「あいつらはおかしい」とかいうのは、西欧中心主義の暴力なので、そういう「文化」は黙って尊重せねばならない、ということになっている。
ちなみに、人間集団はタブーの共有によって成り立っている、という原理を見出したことは、文化人類学のもっとも重要な貢献であるが、文化人類学そのものもまた、タブーによって成り立っている。それが、「苦しくない呪縛を、呪縛と言ってはならぬ」というタブーなのだ、と思われる。もちろん、このタブーに言及することは、タブーであるから、文化人類学者に聞いても、教えてはくれない。
つづけて kaseki 氏は言う。
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本書に出ているケースについては、対象になっている人物が悉く「呪縛」され苦しんでいる
(あるいは苦しんでいた)ケースのみ挙げられているので問題ないが、
ある人がある価値観に縛られていて当人(あるいは周囲も含め)が
苦痛を覚えているとは限らず、十把一絡げにするのは乱暴に見える。===============
しかし、本書が本当に問題にしているのは、「苦しくない呪縛」である。それこそが社会をまるごと縛り付け、その作動を狂わせるからである。呪縛に苦しむ人間は、それを「呪縛」として認識するがゆえに苦しむのであって、呪縛に苦しまない人間は、それを「呪縛」として認識できないがゆえに、平気なのである。議論の対象が「呪縛に苦しむ人」に限定されるのは、そのためである。
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著者のそのあたりの区分の乱暴具合は本書ではさほど出ていないものの他所で出している
文には大いに出ており、ゆえに干されているように見える。(自覚が無さそうであるが)それにしても、本書の思想の結末があの独善的な意見(同著者の別の本の「タガメ女」、「カエル男」)なのであれば、あまりにも残念な結末としか思えない。
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つまるところ、この kaseki 氏は、御本人がカエル男であって、かつご自分は「苦しくない」のだと思う。それゆえ自分は「立派な夫」であって、「カエル男とか言うな!」とお怒りなのである。これは上の文化人類学的言葉でいえば、日本的夫婦関係は、それはそれで立派な文化現象であり、それが「タガメ女、カエル男」だ、とかいうのは、乱暴だ、ということである。こういう議論は、文化人類学のタブーに触れているのである。
しかし、タガメ女・カエル男に立腹しながら、わざわざこの高くて面倒くさい本を入手して、その上、怒りながらも最後まで読み、しかもアマゾンにコメントを書く手間をとるとは、ずいぶんなストーカー的執念である。「素人」は、こういうことをしないで、だいたい、読まずに悪口だけ書くものであろう。こういうことができるというのは、やはりこの人は、「玄人」なのではないか、を思わざるを得ない。
それに気になるのが、
「ゆえに干されているように見える。(自覚が無さそうであるが)」
という謎めいた表現である。
「干されている」という表現が普通に意味するところは、「食い扶持を与えられない」ということである。特に、食い詰めている院生などが、非常勤講師の口を充てがってもらえない、というようなときに「干されている」と言う。しかし、深尾氏は同世代としては異例の早さで母校の国立大学に就職し、現在も阪大の先生であるから、この意味ではぜんぜん干されていない。
にもかかわらず「干されている」とこの人が言うのは、「シンポジウムや研究会に呼んでもらっていない」ということである。「学界」に生息する生き物は、学会や研究会に呼んでもらえないことを、極度に恐れる。そうやってシカトされていると、「自分は学者ではない」ということになってしまって、立場を失う気がするからである。私もかつては、シンポジウムや研究会を開いたり、あるいは研究班を立ち上げるときに、「この人を呼んで、あの人を呼ばないわけにはいかないよなぁ。。。」とかいって、悩んだものであった。逆に、誰かをいじめるときには、学会や研究会に呼ばなかったり、集団で本を書く時に声を掛けなかったりする。そうやって「干す」ことで攻撃になっている、と彼らは思うのである。「干されている」という言葉に、こんな意味があることを、普通の人は知らないだろう。
しかも、深尾氏は、そういう意味で「干される」ことをあえて望んで作り出している。どうでもいいシンポジウムや研究会に呼ばれたり、学会運営に駆り出されたりすることは、学会に生息する生き物にとっては無上の喜びであるが、そういう呪縛を抜けだした者にとっては、ただの苦痛である。しかも「干される」という感覚そのものが、アカデミズムの小さな池に生息し、周囲の評判や学会の評価におもねって日々を送っている人々が強固に恐れる感情であるということを示している以上、ある種の「呪縛」概念であることを熟知しているからである。
それゆえ深尾氏は、そういう「干す/干される」というような不気味な世界から足を洗うべく、こういう本を書いたのである。それは私がこの本の序文で「学術ダムの決壊」と書いたことの意味である。「干されている」ことに「自覚が無い」のではなく、「自覚的に決別した」のである。そういう人に向かって「お前、干されているのに、気づかんのか?!」とか言う喜劇的振舞いは、まさに呪縛のなせる技である。
ではなぜ、深尾氏が「干されている」のに「自覚が無い」ということを、この人は「知って」いるのであろうか。それはこの人が、深尾氏を「干して」いる張本人の一人だからであろう。それに効き目がないのでますます腹が立つので、わざわざこの本を読んで、アマゾンに書き込みをして、嫌がらせをしているものと思われる。
以上、このコメントが、著者への嫌がらせを目的に書かれ、なおかつ著者が批判するアカデミズムの呪縛を体現したものである、ということが明らかになる。
FBIのプロファイリングみたいに書けば、深尾氏の「本職」は中国研究であるから、
中国研究者で、文化人類学者で、ストーカー気質のある日本人の初老の男性研究者
という像が浮かんでくる。こんな絞り込みが当たっているかどうかはわからないが、少なくとも、日本社会の「ムラ」に棲息する傷ついた魂のありようが、短い文章のなかに見事に表現されている極めて興味深いコメントであることは、間違いがない。
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- 2014/05/16(金) 11:28:46|
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>わざわざこの本を読んで、アマゾンに書き込みをして、嫌がらせをしているものと思われる。
「中国研究者で、文化人類学者で、ストーカー気質のある日本人の初老の男性研究者」と云うプロファイリングが正確であれば、「同業者」なのでしょうが、この程度で済んでいれば未だましなのでしょうか。
私の専門領域であった(既に某官庁を退職しましたから過去形)法律学では、過去に、「天皇機関説事件」と云う日本政治史上で禍根を残した大事件があります。 その端緒は、美濃部達吉の唱えた憲法理論に敗れた上杉慎吉が、当時右傾化しつつあった時代潮流に乗じて、軍部と右翼勢力を焚きつけたことが挙げられます。
私は、憲法・行政法専攻でしたので、当然のことに両者の憲法理論書を読みましたが、菊の御紋章を見開き頁に掲げ、「国家は最高の道徳である。」等々と神学並みの「理論」を説かれても、いくら戦前に在っても、法律理論としては役に立つことはありませんでした。
当然のことに、当時の高等文官試験でも、諸種の官庁内研修等でも、美濃部達吉の憲法と行政法理論が正当性を持っていました。
攻撃を主導した軍部・右翼の思惑は、法律理論への攻撃を利用して絶対的権威を確立せんとしたのでしょうが、その思惑の結末は、歴史が証明しています。
あくまでも「プロファイリングが正確であれば」との前提が付きますが、「同業者」であれば、学会や学会誌で論争をして欲しいものです。 一般読者をミス・リードせんとするかの如き行動は慎むべきでしょう。
- 2014/05/18(日) 12:18:13 |
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