マイケル・ジャクソンの思想

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深尾葉子「ある黄土高原農民の死」

深尾葉子大阪大学准教授は、二〇年以上にわたり中国・黄土高原の村に調査に赴いている。私も、過去十年ほど、参加させて頂いている。そこでお世話になっている家の戸主が昨年末突然病気で亡くなった。黄土高原の典型的な住居ヤオトンのその家には、これまで日本から多くの人が訪れ、泊めてもらい、彼と彼の奥さんの美味しい手料理をごちそうになっていることから、多くの人が関心をもって関わっている。今年のお正月に第一報の悲報が届いた際、これまでゆかりのあった日本人に知らせたところ、多くの香典が寄せられた。中国の農民は現在医療の集団保険に加入していて、治療費の一部はカバーされるものの、遠方の病院での治療や高度医療、入院費などカバーされない費用も多い。今回も短い間ではあったが、集中的な治療と手術に何万元ものお金を要した。そのため、日本から寄せられた香典も、借金して工面した治療費の返済にあてられている。今回、深尾准教授が、村を訪れてお金を届け、その死の前後の様子を詳しく聞いた。以下の内容は、現代中国農民のおかれている境遇や社会状況、そして黄土高原の農民が最期に自らの尊厳をとりもどして、死を迎える様子が書き表されているとともに、我々にも共通する現代医療の問題なども表現していると思われるので、ここに掲載する。

この家では、陝西省北部の郷村の伝統的様式を復活させて、日本人が結婚式を行う、というイベントが行われ、全中国に広く報道された。その様子は以下の「楊家溝村日本人結婚式の経緯」で紹介している。

http://individuals.iii.u-tokyo.ac.jp/~yasutomi/hunli/index.html


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【ジーホイの悲報】

 2014年のお正月二日目、突然電話がなった。電話口の向こうは私が黄土高原でお世話になっている家族の息子、タールンだ。こちらから電話をかけることはあっても、向こうからかけてくることは珍しい。何かあったんだろうか、と一瞬緊張する。どう?そちらは皆元気?と聞くや、重い声で「父が亡くなった」と告げた。
 一瞬、なんのことかわからなかった。父ってジーホイが?わずか4ヶ月前村を離れた時は、いつになく顔色もよく、これからゆっくりと心豊かに老後を送れるようになったと喜んでいたばかりだ。まさか、そんなことが?あまりのことに一瞬呆然とする。なぜ?どうしてこんなに早く?
 15年ほど前から胃をわずらって、重労働も畑仕事もできなくなってはいたものの、数年前に孫が誕生してからは、生活にも張り合いができ、最近はとても楽しそうに見えた。もともと、料理が上手く、我々日本からの訪問客に温かく接し、美味しい手料理でもてなしてくれていたので、彼を慕う日本人は何十人といる。ようやく60を過ぎたばかりで、子どもも独立し、心身ともに負担が減った矢先に病に倒れるなんて。
 聞くと8月に我々が村を離れてからしばらくはいつもどおりに過ごしていたが、9月末頃から少し具合が悪いのを感じ始めた。同じヤオトンに暮らすターガーが、夜中にトイレにいく回数が増えているのに気が付き、どこか悪いのではないかといって、20キロ離れた県城の病院に検査にゆくことになった。とはいえ、秋は収穫のシーズンで、農作業を一手にに担う妻のルオリンは、ジャガイモや雑穀の収穫に忙しい。自分自身も、親戚の結婚式の「総管」(ゾングアン・全体の進行を指揮する責任者)の役を引き受けていたので、10月末までは、いつもどおりに過ごし、11月になってようやく県の病院に足を運んだ。まずは県医院で検査をしたが、そこでは胃が悪い以外に異常はない、という。長年この病院で診てもらい、一日12元の胃薬を飲み続けてきたが、今回はどうもおかしい、というので、同じ県城のもう少し設備のよい病院で精密検査をうけることにした。県城の息子の家に夫婦で泊まりこみ、毎日病院で点滴を受けながら検査の結果をまった。同病院の医師は、「ここでは何も有効な治療はできない。もしも希望するなら西安の病院で、開腹せずにできるレーザー治療の手術が受けられるから、それを受けてみれば何か事態を少し好転させることができるかもしれない。もし手術が成功したら、またこの病院に帰ってくれば点滴など簡単な事後治療はできるので戻ってくればよい」と本人に語った。本人は「そういう医療があるならぜひ受けてみたい」と語り、一旦村に帰宅し、西安の病院にゆくための準備を整えることになった。実は検査の結果は肝臓がんの末期で、息子や妻のルオリンには、余命は数ヶ月、県の病院ではなんの手も打つことができないので、もし知り合いが西安にいるのであれば、西安の大きな病院に移ったほうがよいと告げられていたが、本人には末期であることは知らされず、ただ、肝臓にガンが転移している、ということだけが知らされていた。しかし、検査の結果が出る頃には、すでに腹水がたまるほど、病状が進行していた。一旦村に戻ったジーホイは自分で荷物をもって歩けるほどで、自宅へ帰るなり、西安の病院にいくための資金を自分で集めようと、小さな黒いショルダーバッグをもって、村の数件の知人の家を訪ね歩いた。12月2日のことであった。
 中国では今も民間金融が非常に発達しており、とくに内陸部農村では、それぞれの関係に応じて、親戚や友人が相互に資金を融通しあう関係が今も健在だ。農民の主たる支出といえば、息子の結婚式や、息子のための家を購入する資金の調達、まれに留学や進学などに必要な金の調達、そして病気の際の費用の工面などである。村の中では、個人の情報はとても頻繁に取り交わされ、誰がいつ、どんな目的で金を必要としているか、子どもたちや家計の状況はどんなものか、など、詳細にうわさ話がやりとりされている。ジーホイの家族は村では、金持ちというほどでもないにせよ、外国人が出入りし、妻方の親戚が多数西安にいて、皆それなりの仕事をしているため、恵まれた家族だと考えられている。また、以前息子が県城に家を買う際に一度借金をしたことがあるが、それも数年で全部完済し、信用度はかなり高い。
 この時ジーホイは、自身が病気であることは告げずに、少し金が必要だが貸してほしい、と金銭状態の豊かな村の家を数軒まわり、一件1万5千元から4万元まで、あわせて13万元の資金を借り入れた。前回息子の家を買う際には、親族からの借り入れが多く、利息はなかったが、今回は村の人からで、初めて利息のつく借り入れであった。
 村人は、ジーホイが自らの病気治療のために金を借りていることをうすうす知ってはいたものの、特に問いたてることはせずに、金を貸してくれた。1万元借りるごとに、一ヶ月4元の利息(実際には日割り計算)が現在の相場だ。
 西安にいくための資金を自分で調達し、まもなく息子の手配で西安の病院に入院する手はずがととのって、列車にのって600キロ離れた西安まで家族とともに向かった。家族はジーホイの病気が助からないものであることを聞かされてはいたが、西安には先進医療があると聞き、手を尽くさずに座して死を待つよりは、よりよい医療を受けて助かる見込みはないだろうか、と一縷の望みを託しての決断だった。
 中国では、何か特別な縁故がなければ、大きな病院で手術を受けることも入院することも極めて困難な現状だが、西安を拠点に全国で子どもの遊技場の遊具を貸し出す商売をしている二番目の息子の嫁が安康出身で、お父さんの同級生である親友が西北五省でもっとも医療水準が高いとされる西京医院の事務局長をやっていることがわかり、その紹介で、特別に入院が許可された。今回受けるのは開腹手術ではなく、管を通してレーザーで手術をするといもので、順番を待つ人が多数入院する中、ジーホイは症状が悪化し、緊急を要するということで一週間早めて12月半ばには手術を受けられることになった。この時ジーホイは、自分はなんとよい親戚に恵まれているのだろうと、たいそう喜び、西安での手術にきわめて前向きだったという。この手術は一本1万元。農民の医療保険は、戸籍のある場所での医療には適用されるが、外地での高度医療には適用されず、すべて自費負担となる。西安には妻の姉妹兄弟とその子どもたちが多く住んでおり、全員が総出で看護にあたり、手術を受けることになった。手術は3箇所で、その手術代だけで3万元の支出となった。もちろん本人は、なんとか病気を治して自ら借金もかえそうという意気込みであった。
 しかし、そもそも肝臓がんが末期に達し、体の免疫力が著しく低下している状態で、たとえ影響の少ない手術とはいえ体に傷をつける手術を三箇所も行ったことから、術後容態は一変し、大量吐血とともに、腹部に大量の内出血があり、腹部から腰回り全体が内出血で紫に腫れ上がるほどの状態であった。痛みも激しく、わずか一週間前に自分で列車にのって入院したとは思えないほどの激変であった。病院側は、手術で7割の摘出には成功したが、あとは本人がその影響を乗り越えられるかどうかにかかっている、と説明し、これ以上手をうつことはできないので、できるだけ早く退院し、自宅にもどるよう説明した。要はもはや助からないので、病院で命を落とすよりも、一刻も早く自宅に帰って最後を迎える準備をするように、とのことである。また、西安の病院で亡くなった場合、都市民への死後の処理が適用されるので、近くの火葬場で火葬され、遺骨で村に帰ることになる。黄土高原の農民は今も土葬が一般的で、どうしても火葬を受け入れることができないため、親族は一刻も早く退院させ、生きている間に村に送り届けなければ、という思いにかられていた。またこの頃、2度にわたって、大量の吐血もあり、村への搬送は一刻を争う事態となった。
 手術のあとの大量出血と痛みにより、もはや通常の車でも600キロの移動は困難なので、家族はやむを得ず、個人開業の救急救命車両を雇い、12月の23日の早朝午前5時、病院の下で待機した。総勢20名を超える西安の親戚一同も病院にかけつけている。ところが、本人は「病気は始まったばかり、西安の病院を離れては治療ができないから自分は帰らない」とまったく帰ろうとしない。救急車両も親族も階下で待機する中、本人は病院を離れ村に戻ることを一切受け入れようとしなかった。ついに、常家の2番目の姉婿(妻の家族)が病室に入り、「ジーホイ、帰ろう。処方箋も全部渡してもらった、これ以上ここにいても何もできないから、あとは帰って県の病院で点滴を受けよう」と説得した。
 この時初めてジーホイは、自らの病状がもはや助からないものであることを悟り、病院の衣服から帰宅するための衣服へと着替えることに同意したという。その後も立ち上がることも困難な中、担架で運ばれて、救急車輌に乗り込み、一路米脂県に向かった。一緒に車に乗り合わせたのは妻のルオリンと、二人の息子、タールンとアールンだ。
 民間の救急車輌は、公的な救急車輌は使えないが、一般の車輌では輸送が困難な重篤な患者専用のもので、車輌には酸素マスクや血圧計、救急救命の器具などが搭載されている。しかし、医師や看護婦や救命士が同乗するにはまた別途料金がかかり、しかも急な手配で数百キロ離れた村まで同乗してくれる人を見つけることもできなかったので、家族のみ同乗し、2名の運転手が交代で、運転にあたった。救命士が同乗しない状態では、緊急車輌も担架で運び入れることができることと、交通渋滞をすりぬけることができる以外には一般車両とそれほど変わらない。しかもその費用は4000元で、少しでも道中様態急変などで時間をとった場合はさらに料金が加算されるしくみだ。
 道中、痛みがひどくなり、何度も途中の病院に寄ろうとするも、救急の受け入れ体制は十分ではなく、痛み止めも十分に持ち合わせていなかったため、ひどい苦しみの中の搬送となった。揺れる車内での痛みのなかで、故郷に送り返されることの無念を訴える父についに2番目の息子が言った。「父さん、病院は治してくれないのではなくて、もう、父さんの病気は治せないんだ、、」と。この時ようやくジーホイは、本当にもはや打つ手はないのだということを知り、「なぜ、それならもっと早くそのことを知らせてくれなかった。治らないとわかって手術を受け、高額の医療費を払い、命も助からない。おまえたちは立派な息子だが、どうしてそんな大事なことを今まで知らせなかったんだ」と目を見開いて涙した。
 息子は、「西安には高度な医療があると聞いて、もし手を打って助かるのならと思って命綱にすがるような気持ちだった」といい、妻は「お金のことは心配しなくても、息子たちがいるから大丈夫だ」と諭した。そして、ようやく、県城から医師を連れて高速道路をかけつけた娘婿と合流すると、痛み止めの注射を打ち、まるで先ほどまでの苦しみが嘘のように、落ち着いた。
 覚悟を決めたジーホイは、「県城の病院ではなく、直接家に送ってくれ。県の病院に行ったところで、いずれまた家まで戻るだけなら、今のうちに家にもどるほうがいい。その際、自分たちが新婚の時に住んだ奥のほうの家に送り届けてくれ」という。奥のヤオトンは、日頃住んでいるヤオトンが妻方の名義の所有なのに対し、自分の名義の所有で、そのまま葬儀の会場として使うのにふさわしく、また、村の奥まったところにあるため、緊急車両で搬送されるのに、少しでも目立たないように、という配慮からだった。息子たちはすぐさま県城の嫁や娘に電話して、村の奥のヤオトンのオンドルに火を入れ、湯をわかして、電気毛布を敷き、温まった状態で、部屋に入れるように準備するようにと頼んだ。そこから、村に帰るときは、あまり具合の悪い様子は見せたくないので、なるべく静かに家に入り、葬儀はできるだけ簡単に済ませるように、葬式の食事は極力おさえて、お金をつかわないよう、と冷静に、そして細かく息子に言い聞かせた。これまで治療でお金を使ってしまった以上、葬儀にはお金をかけるな、というのだ。陝西北部の農村では、お葬式は3日にわたって、最大9食ないしそれ以上の食事を供する場合もある。近年は簡素化し、2日で2食のみ、というパターンも徐々に普及しつつあるものの、一食も供しない葬式はまだない、というので息子たちは「父さん、いくらなんでもそれはない。一日目に料理を出し、二日目にハーラオ(押し出し麺の料理)を出すくらいのことはさせてほしい」と懇願し、ついにそれは「お前たちが決めたらいい」と譲歩した。しかし、葬儀につきものの花火は一切しないこと、バイルートンという送り火も最小限にすること、帳(チャン)と呼ばれるお香典は一切受け付けないこと、などは、すべて父親の言うとおりにした。また、12月の初旬に自宅を離れてから約1ヶ月上の息子は仕事もなにもかもなげうってずっとつききりであり、外で働く二番目の息子も西安についてからずっと付き添いであったので、「私が死んで、二日間の葬儀を終え山頂の墓に私を埋葬したら、すぐにもとの生活にもどるように」とも指示した。
 途中、「どこまで来たか」と何度も訪ね、ようやく村に続く谷にさしかかると、いままでの様子が嘘のように顔色もよくなってきた。
 夕方ようやく村につくと、すでに用意されたヤオトンのオンドルに横たわり、しばらく休んだあと、自分専用の携帯電話を出して、これまで西安で面倒をみてくれた親戚全員に自分で電話をし始めた。「おー、村にもどったよ。病気は帰り道、途中でどこかに置いてきてしまったようだ。今はとても気分がよく、元気になったから安心してほしい。西安ではいろいろと世話をしてくれてありがとう」と一人ひとりに礼をいったという。数日前大量に吐血し、あれほど苦しんでいた人からの電話とは思えないような明るい声で電話を受けた親戚は、一同驚いたという。村では、2週間ほど前、西安の病院に行くと言って村を後にしたジーホイが、緊急車両で搬送され、余命はもはやほとんど残されていない、という噂が瞬く間に広がったが、わずか1ヶ月ちょっと前、結婚式の総管をつとめ、元気に振舞っていたジーホイがまさかそんなことはないだろう、そんなのはきっとデマだろうと誰もがいぶかるほどの突然の展開であった。
 しかし、西安で手術を受けて以来、血小板の値が著しく低下し、一旦出血があると、流血が止められない状態となっていた。入院してからは、大好きな食事も、水を飲むことも禁じられていたという。点滴で水分を補ってはいるものの、口のまわりは乾燥し、もう10日以上ものを口にしていなかった。かつて肉や卵が大好きであったが、病気になってからはずいぶん長く食べるのを抑制していた。最後に、大好きだったスイカを二口食べて、それ以来また、何も口にしなくなった。この間、妻のルオリンはずっと傍らで看病し、手を握って少しでも安心できるよう、涙をこらえて世話をした。何度も涙をこらえきれなくなるルオリンに、村の友人たちは、「子どもたちの事を考えて、気をしっかり持つのよ、あなたが泣いていては皆が不安になるから」と励ました。村に帰ったジーホイを迎えた孫の馬宇暁は、自分を小さい頃から育ててくれた大好きなおじいちゃんにすがりついて、「おじいちゃん、いつになったら県城の僕の家にまた僕の世話をしにきてくれるの」と大声で泣き、大人たちの涙をそそった。
 23日に村にもどってから痛みで夜も十分に眠れない状態が続く。知らせを受けて、今は延安に住む村の親友が駆けつけた時には、たいそう喜んで、「おお、お前も帰ってきたか」と安心したという。実は葬儀には村の木匠であった彼が「総管」を務めることになっており、ジーホイは事細かに葬儀の内容を指示した。この時まで、意識はきわめてはっきりとしており、話もはっきりとしていた。この木匠の友人が到着したあと、ジーホイは徐々に昏睡状態に陥り始め、当初は時折目を見開いていたものの、徐々に眠っている時間が増えるようになり、翌日夕方5時ころ、呼吸がだんだん遠くなって、ルオリンが手を握って見守るなか、すーっと眠りにつくように息を引き取った。12月28日夕方5時、入院のため西安にむかってからわずか3週間、村にもどって5日目のことであった。当初ジーホイは、土葬の際の服装も、新しく買う必要はない、いままでの古い服装で良い、と言っていたが、生前からスーツが大好きだったことから、二番目の息子が県城で真新しいスーツを買い、最後に息をひきとった時には、上下の揃いのスーツを着た状態であった。若いころ、勉強して大学にゆきたいという夢を持ち、その後もただの農民に終わることなく、なにか成し遂げたいという夢を持ち続けていたジーホイ。服装の趣味がよく、外出する際には、革のジャンバーやブーツなどをおしゃれに着こなし、決して黄土高原の田舎から出てきた農民に見えない姿で街にでていったジーホイにふさわしい、最期の姿であったともいえる。中国農民は、かつて人民公社時代に中山装を身につけ、改革開放後は、スーツやブレザーを着ることで、少しでも都会風な出で立ちを身につけようとしたが、農民であることに甘んぜず、何か新しいことを始めたいと思いつつ、思いを叶えることのできなかったジーホイは今、スーツ姿で黄土高原の大地に眠っている。このことは彼と彼の時代の人々の人生を象徴的に物語っている。



 
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  1. 2014/05/04(日) 12:29:18|
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