これは実に奇妙な文章である。「東京大学における軍事研究の禁止について」というタイトルであるから、そのまま見れば、軍事研究を禁止する文章に見える。しかも第一段落では、
「学術における軍事研究の禁止は…東京大学の教育研究のもっとも重要な基本原則の一つである。」(0)
と明記されているので、つまり、軍事研究禁止の原則を確認しているわけである。
ところがそこから話が徐々にズレていく。第二段落で、
「日本国民の安心と安全に、東京大学も大きな責任を持つことは言うまでもない。」(1)
というが、そんな責任を東京大学が持つ、という話は聞いたことがない。たとえば東大憲章にはそのようなことは一言も書かれていない。そこには、
国籍、民族、言語等のあらゆる境を超えた人類普遍の真理と真実を追究し、世界の平和と人類の福祉、人類と自然の共存、安全な環境の創造、諸地域の均衡のとれた持続的な発展、科学・技術の進歩、および文化の批判的継承と創造に、その教育・研究を通じて貢献することを、あらためて決意する。 (A)
と書かれており、「人類普遍の真理と真実を追究」し「世界の平和と人類の福祉」に貢献することが使命だと高らかに宣言している。(A)では「人類普遍」主義を主張しながら、(1)では「日本国民」主義を主張している。両者は明らかに齟齬している。
その上で次のように言う。
「そして、その責任は、何よりも、世界の知との自由闊達な交流を通じた学術の発展によってこそ達成しうるものである。」(2)
「世界の知」という奇妙な言葉は、文書全体の欺瞞性の象徴であるが、ここでは論じない。ここで言っていることは、(1)に示された責任は(2)によって達成される、というのであるが、両方をくっつけると、
「日本国民の安全・安心という東大の責任は、学術の発展で達成される。」(2’)
ということになる。これは、学術の発展を日本国民の安全・安心の手段とする、という意味であり、学術の純粋性を自ら放棄していることになる。つまり、東大憲章に示された理念を、放棄していることになる。
そして次に、
「軍事研究がそうした開かれた自由な知の交流の障害となることは回避されるべきである。」(4)
と「軍事研究」が現れる。ここでは(3)で提示された、
日本国民の安全・安心 ← 学術の発展 ← 世界の知との交流(3’)
という関係性を前提として、「軍事研究」が「開かれた自由な知の交流の障害」となってはいけない、という話が持ちだされる。なぜなら、それでは「日本国民の安全・安心」が達成できないからである。
しかしここでよく考えてみよう。「軍事研究」に関する文脈で、「日本国民の安全・安心」という言葉は何を意味するのだろうか。すくなくともそれは「安全保障」を含意している。そればかりかこの言葉は「安全保障」の言い換えではないだろうか。そしてそもそも「安全保障」は「軍事」の言い換えである。ということは、
日本国民の安全・安心=日本の安全保障=日本の軍事
ということになる。そうすると(4)の主旨は、
開かれた自由な知の交流が軍事によって阻害され、学術の発展が滞り、それが軍事の妨げになってはいけない(4’)
ということであり、さらに言い換えると、
軍事研究が軍事研究を阻害してはならない(4’’)
というぐるぐる周りの循環論法を展開していることになっている。これは常に満たされる恒等式であるから、何の歯止めにもならない。つまり、軍事研究は全面的に解禁される、ということになってしまう。
このように軍事研究禁止原則を無効化した上で、とどめを刺す。
「軍事研究の意味合いは曖昧であり、防御目的であれば許容されるべきであるという考え方や、攻撃目的と防御目的との区別は困難であるとの考え方もありうる。また、過去の評議会での議論でも出されているように、学問研究はその扱い方によって平和目的にも軍事目的にも利用される可能性(両義性:デュアル・ユース)が、本質的に存在する。実際に、現代において、東京大学での研究成果について、デュアル・ユースの可能性は高まっていると考えられる。」(5)
ここで言っていることは、「結局のところ、どんな知識だって、善用もできれば悪用もできる。防御にも使えれば攻撃にも使える。平和利用もできれば軍事利用もできる。現代ではますますそうなっているよね。」ということである。これはつまり、
「ある研究が、軍事かどうかは、それ自身としては判定できない」
という意味である。
以上をまとめると、
・「軍事研究禁止原則は保持する」
・「軍事研究は軍事研究を阻害してはならない」
・「ある研究が軍事かどうかは判定できない」
ということになる。これによって軍事研究禁止を保持しながら、それを完全に無効化することができる。
そしていよいよ本題に入る。
「このような状況を考慮すれば、東京大学における軍事研究の禁止の原則について一般的に論じるだけでなく、世界の知との自由闊達な交流こそがもっとも国民の安心と安全に寄与しうるという基本認識を前提とし、そのために研究成果の公開性が大学の学術の根幹をなすことを踏まえつつ、具体的な個々の場面での適切なデュアル・ユースのあり方を丁寧に議論し対応していくことが必要であると考える。」(6)
「このような状況を考慮すれば、東京大学における軍事研究の禁止の原則について一般的に論じるだけでなく」というのは、つまり「軍事研究の禁止の原則」は一般的な議論の対象に格下げになる、ということである。「世界の知との自由闊達な交流こそがもっとも国民の安心と安全に寄与しうるという基本認識」は、(3’)の図式を確認している。
「研究成果の公開性が大学の学術の根幹をなす」という表現は実に受け入れがたい。東大憲章では「人類普遍の真理と真実を追究」することが学術の根幹だと宣言していたのではないだろうか。
研究成果を公開したからといって、それが人類普遍の真理と真実であることはまったく保証されない。というのも、大抵の研究は後から間違っているか、意味が無いことが確認されるものだからである。研究成果と称するもののごくごく一部だけが、長い年月を経て人類普遍の真理として受け入れられていく、という学術の歴史を見れば、それは当然のことである。
研究というものは、一人の研究者が一生掛けても大抵は達成しえないような人類普遍の真理の追求のために、全身全霊で献身するところではじめて可能となる。それはキレイごとでもなんでもなく、厳然たる事実である。東大憲章に謳われた「国籍、民族、言語等のあらゆる境を超えた人類普遍の真理と真実を追究」するという東大の責務からかんがえるなら、研究成果の公開というものはアタリマエのことであって、単なる前提条件に過ぎない。
しかもその公開の必然性は、それが「国民の安心と安全=安全保障=軍事」に貢献するために必要なのだ、という脆弱な論理の上に構築されている。こんなことで学問の自立性や独立性を守ることは、決してできない。
産経新聞の報道によれば、
東大は解禁理由について「デュアルユース研究は各国の大学で行われている。研究成果の公開性を担保する国際的な動向に沿った形で、ガイドライン改訂を行った」と強調している。
ということなのだが、これはガイドラインにも何もなっていない。このような矛盾に満ちた文書で軍事研究原則を無意味化すれば、必然的に軍事研究大学へと転がり落ちていくであろう。それが「各国の大学」で行われているとしても、果たして「第二次世界大戦の惨禍への反省を踏まえて」いるはずの大学にふさわしいかどうか、極めて疑問である。
そしてまた、更に驚いたことにこの文章を書いている最中に(2015年1月16日21時29分)、朝日新聞で『東大「軍事研究認めない」 「解禁」の一部報道を否定』という次のような記事が出た。
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軍事に関わる研究を禁止している東京大学で、大学院の情報理工学系研究科が昨年12月、「科学研究ガイドライン」を改訂した。これについて一部の報道機関が16日に「軍事研究を解禁」などと報道。東大は同日、「報道内容が間違っている」と否定した。広報課は「誤解を招いたようだが、軍事研究禁止の方針はこれまでと変わらず、一部でも認めない」と説明した。「今後は個別の研究を確認し、軍事目的の研究と判断すれば研究を認めない」としている。
東大によると、ガイドラインは同研究科の学生向けに2011年に作られた。改訂では「一切の例外なく軍事研究を禁止する」という文言を削除し、「成果が非公開となる機密性の高い軍事を目的とする研究は行わない」と追加した。
東大は、こうした改訂が「軍事研究の解禁」と解釈されたとみている。研究科に対し、「誤解のない表現を工夫するよう伝える」という。
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これを見ると、ここで解析した総長の文書は、
「東大が軍事研究を解禁した」という報道を否定するために出た、ということになろう。とするとこれは、まったく開いた口が塞がらない。というのも、上で見たように、この文書は東大憲章と齟齬する論理によって構築された、軍事研究を可能にするものだからである。
東大が軍事研究解禁報道を否定するというのであれば、総長は直ちにこの文書を撤回されるべきである。さもないと、これを根拠として軍事研究が進んでしまうからだ。そして、東大憲章に基づいた強力な議論を構築されるように切望する。
さもなくば、この文書の目的は、騒ぎが大きくならないように「軍事研究の否定」のポーズを示しつつ、実際は、軍事研究を可能にする、という目的で作成された、ということになる。東京大学の総長がこのような欺瞞を率先して示すなら、その影響は計り知れない。
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http://www.u-tokyo.ac.jp/ja/news/notices/3564/東京大学における軍事研究の禁止について
2015年01月16日掲載
学術における軍事研究の禁止は、政府見解にも示されているような第二次世界大戦の惨禍への反省を踏まえて、東京大学の評議会での総長発言を通じて引き継がれてきた、東京大学の教育研究のもっとも重要な基本原則の一つである。この原理は、「世界の公共性に奉仕する大学」たらんことを目指す東京大学憲章によっても裏打ちされている。
日本国民の安心と安全に、東京大学も大きな責任を持つことは言うまでもない。そして、その責任は、何よりも、世界の知との自由闊達な交流を通じた学術の発展によってこそ達成しうるものである。軍事研究がそうした開かれた自由な知の交流の障害となることは回避されるべきである。
軍事研究の意味合いは曖昧であり、防御目的であれば許容されるべきであるという考え方や、攻撃目的と防御目的との区別は困難であるとの考え方もありうる。また、過去の評議会での議論でも出されているように、学問研究はその扱い方によって平和目的にも軍事目的にも利用される可能性(両義性:デュアル・ユース)が、本質的に存在する。実際に、現代において、東京大学での研究成果について、デュアル・ユースの可能性は高まっていると考えられる。
このような状況を考慮すれば、東京大学における軍事研究の禁止の原則について一般的に論じるだけでなく、世界の知との自由闊達な交流こそがもっとも国民の安心と安全に寄与しうるという基本認識を前提とし、そのために研究成果の公開性が大学の学術の根幹をなすことを踏まえつつ、具体的な個々の場面での適切なデュアル・ユースのあり方を丁寧に議論し対応していくことが必要であると考える。
平成27年1月16日
東京大学総長 濱田 純一
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東大、軍事研究を解禁 公開前提に一定の歯止め
産経新聞 1月16日(金)7時55分配信
東京大学(浜田純一総長)が禁じてきた軍事研究を解禁したことが15日、分かった。東大関係者が明らかにした。安倍晋三政権が大学の軍事研究の有効活用を目指す国家安全保障戦略を閣議決定していることを踏まえ、政府から毎年800億円規模の交付金を得ている東大が方針転換した。軍事研究を禁じている他大学への運営方針にも影響を与えそうだ。
東大は昭和34年、42年の評議会で「軍事研究はもちろん、軍事研究として疑われるものも行わない」方針を確認し、全学部で軍事研究を禁じた。さらに東大と東大職員組合が44年、軍事研究と軍からの援助禁止で合意するなど軍事忌避の体質が続いてきた。
ところが、昨年12月に大学院の情報理工学系研究科のガイドラインを改訂し、「軍事・平和利用の両義性を深く意識し、研究を進める」と明記。軍民両用(デュアルユース)技術研究を容認した。ただ、「成果が非公開となる機密性の高い軍事研究は行わない」と歯止めもかけた。以前は「一切の例外なく、軍事研究を禁止する」としていた。
東大などによると、評議会は審議機関で、軍事研究の是非など運営方針の決定権は総長にある。総長には審議結果に従う法的な義務はない。それにもかかわらず、東大は評議会での一部の総長らの軍事忌避に関する発言をよりどころに禁止方針を継承してきた。
東大は解禁理由について「デュアルユース研究は各国の大学で行われている。研究成果の公開性を担保する国際的な動向に沿った形で、ガイドライン改訂を行った」と強調している。
東大の軍事研究をめぐっては、昨年4月、複数の教授らが平成17年以降、米空軍傘下の団体から研究費名目などで現金を受け取っていたことが判明し、学内の独自ルールに手足を縛られてきた研究者が反旗を翻した。5月には防衛省が、不具合が起きた航空自衛隊輸送機の原因究明のため、大学院教授に調査協力を要請したが、拒否された。
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- 2015/01/17(土) 09:58:28|
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