
この本の著者は、
・性虐待のサバイバー
・元タカラジェンヌ
・レズビアンのカップルで、ディズニーランドで最初に結婚式を挙げた人
という方で、この本は、その3つの体験を描いている。最初の二つはおそろしいハラスメントの物語であり、最後がそこからの脱出の過程である。
性虐待に関する記述は、読者が衝撃を受けないように、できるだけ抑制的に書かれてある。しかしそれでも、起きている事実は衝撃的である。簡単にいえば、
・父親は、地元で広く知られ、尊敬されているナレーターであったが、
・その父親に、幼児期から風呂で性器を弄ばれ、
・小学校二年生から「挿入」され、
・中学校二年生で初潮が来るまで風呂場で強姦され続け、
・母親は、知ってて、知らないフリを続け、
・本人は解離を起こしてその記憶を忘却し続け、
・父親が死んでから、カウンセリングでようやく思い出し、
・母親にカウンセラーの前で告白したが、母親は、そんなのは妄想だと、今でも言っている。
ということである。
一方で、宝塚音楽学校のおそるべきハラスメントは、克明に描かれている。こんなアホな学校には絶対に入らないほうが良いし、こんなことをしている劇団が、何らかの芸術的創造性を生み出す可能性がないこともはっきりとわかる。宝塚が気持ち悪いのは、女が男の格好をしているからではなく、こういう暴力が支配しているからだったのだ。また、宝塚のファンは、この暴力の香りに酔いしれていたに違いない。こういう暴力集団を放置するのは問題であって、警察の体系的な捜査が必要である。
彼女がこの恐るべき地獄の連鎖から抜け出すことができたのは、ひとえに同性の恋人の支えのお陰である。宝塚時代から、そこを退団したあとにかけてを支えてくれた恋人と、ディズニーで結婚式を挙げた現在のパートナーの増原裕子さんとのつながりが描かれている。そのなかでカウンセラーと出会って、記憶を取り戻すことになる。
私は、こういう恐ろしい体験をしている人は、男女を問わず、
ゴマンといるのだと思う。それを隠蔽しているから、世の中おかしくなるのである。誰もが彼女のように、その恐ろしい体験と出会うことを願う。
この本のなかに「父への手紙」という章がある。そのなかで彼女は次のように切実に問うている。
お父さん、どうか、答えてください。
どうして、子どもだった私を犯したのですか? どうして? ほんとうに、どうして?この問題に、私なりの推測を書いておきたい。というのも、私が直接知っている性虐待を受けた女性のケースと、構造的に一致している部分があり、そこについては同じ様相が浮かぶからである。一致しているのは以下の点である。
(1)父親も、母親も、周囲から、立派な人だと思われていた。
(2)母親に、一度だけ訴えたが、無視された。
(3)大人になって、言語化したら、親は覚えがない、という。
(4)母親が、妄想だと言う。
ここから見えるのは、本書がタイトルとしているように「なかったこと」にしよう、という両親の強い意思である。これは、単に性虐待についてのみいえることではなく、彼らの生き方の根本を表現しているのであろう。彼らは、「立派な人」であるという体裁を維持することに全力を挙げており、そのためにはそれ以外の不都合なことのすべてを「なかったこと」にする、というのが彼らの生き方なのであろう。
とすると、父親が娘を犯す、という行為もまた、なにかを「なかったこと」にするために行われていた、と考えるのが、合理的だということになる。では一体、なにを「なかったこと」にしたかったのであろうか。それはおそらく、夫婦の間の性的関係の不調である。
どういう理由かはわからないが、両親はセックスできなくなっていたか、あるいは無理にやっても母親はちっとも楽しくないようになっていた、と仮定しよう。そうすると、父親は性欲を持て余す。彼らはこの問題を「なかったこと」にせざるを得なくなる。これを家の外に愛人をつくって「処理」すると、お金がかかる上に、「立派な人」だという体裁を維持するのが難しくなる。そうすると、自分の娘を愛人にするのが、安上がりな上に安全だ、という合理的で恐るべき解決策が浮上する。こうして両親の間に暗黙の了解が生じて、娘が父親に強姦され、母親が知らぬフリをする、という構造ができあがる。
著者の父親は、娘が初潮を迎える直前の中学1年生のときに、癌を発症し、十二年間苦しんで死んだ。彼女が中学二年生になって初潮を迎える頃に、母親が「もう父親と一緒にお風呂に入るな」といって、突然、性的虐待が終焉するのだが、これは娘が妊娠してしまうと、事態が面倒になるので、中止命令が出た、ということである。これは同時に、父親にとっては、ストレスのはけ口としていた娘との関係が強制的に絶たれることでもある。これによって彼は持って行きどころがなくなり、ストレスが嵩じて癌になった、と見ることも不可能ではない。
こうして利用された娘が、自分にも「なかったこと」戦略を当てはめると、解離を起こす。この状態で成長しても、当然ながら男性と楽しくセックスをするのは難しくなる。そのたびに父親の暴行の記憶が蘇って、「なかったこと」にできなくなるからである。となると、娘が女性を恋愛対象とするのは自然であり、また、女性ばかりいる集団に入るのも順当な行動である。もちろん、同性愛は動物にも普遍的に見られる当たり前の現象であって、原因を説明する必要などそもそもないのだが、この状況では、そうならない方が不自然でさえある。もしこの女性が男性を性行為の対象とすると、無意識の強烈な反応が起きて、大きな危険を背負うことになる。
そういうわけで、
・性虐待
・タカラジェンヌ
・レズビアン
という3つが「なかったこと」というテーマでまとめられているのは、非常に一貫している。
さて、ここでもし、この美しく成長した娘が、レズビアンとなってパートナーを見つけるというハッピーエンドに向かうことができず、「なかったこと」戦略を継続し、家の体裁を守るために、「正常な結婚」を強制された、と仮定してみよう。
何が起きるだろうか。家の継続や体裁のために無理やりセックスして子どもをつくり、娘が生まれたとしよう。早晩、この夫婦はセックスが不調になる。それでも体裁のために離婚したり愛人をつくったりとかしない、と仮定しよう。すると、「なかったこと」戦略がここでも採用されて、娘を父親の愛人にする、という解決策が浮かんでくるのではなかろうか。
そうするとその娘は・・・という具合に、「なかったこと」にするという戦略が採用されると、家庭内の性虐待が世代連鎖する、という可能性が考えられる。これは実に恐ろしいことである。
私は、現代日本は「なかったこと」にすることが「解決」だと考えられる社会なのではないか、とさえ思っている。各人が自分の「立場」を守るために「役」を果たすことに、また他人の「立場」を脅かさなぬように、汲々としている「立場主義社会」は、「『なかったこと』にする社会」でもある。
それを表現しているのが膨大な国債である。あれはさまざまのトラブルを「なかったこと」にして解決するために発行されているのではないだろうか。あるいは、福島第一原発事故についての対応を見れば、一貫して「なかったこと」にするために膨大な努力が払われているように私には感じられる。
この意味で本書は、単に「かわいそうな人の告白」ではない。また筆者が訴えているLGBTの開放は、単に「少数者の人権問題」ではない。これは、日本社会の根本的な問題の表象であり、この問題を直視することが、我々が抱えているさまざまの困難を乗り越える上で、決定的に重要なことだ、と思うのである。
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- 2014/07/05(土) 12:52:47|
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