マイケル・ジャクソンの思想

小田嶋 隆「レッテルとしてのフクシマ」の分析

日経ビジネスというネット雑誌に小田嶋隆氏の記事が出ていた。読んでなんともいえない不快感を感じたので、その理由を考えてみた。これはかなり複雑で嫌な構造をした詭弁だと思う。

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 月末に福島を訪問しようと思っている。
・・・
 大丈夫に決まっている。福島の人たちは毎日そこで暮らしている。外から出かける人間が、2日か3日現地の空気を吸って土地の食べ物を食べたからといって何が危険だというのだ?
 もちろん、「大丈夫なのか」と尋ねた知人も、本気であぶないと思ってそう言ったのではない。「福島」という言葉を聞いて、反射的にそういう反応をしてしまったというだけのことだ。
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ここが最初のポイントだ。

「反射的にそういう反応をしてしまったというだけのことだ」

この文章では「反射的な反応は無意味で間違っている」という前提が置かれていることがこれでわかる。果たしてそうなのか。人間の反射的な反応は、じっくり頭で考えた反応に対して、常に劣位であると言えるのか。

私が反射的に気になるのは、「本気であぶないと思ってそう言ったのではない。」と言っていることだ。反射的な反応は本気ではなく、じっくり頭で考えた反応が本気だ、というのは、私には理解できない。これは人間の理解として間違っていないか。何か美味しそうなものを見て、「食べたい!」と思ったけれど、「いやいや、体重のことを考えろ。」と思ってそれを我慢した場合、「本気」はどちらか考えてみたほうがいい。

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この反応はわりあいに一般的だ。というよりもむしろ、ほとんどの人は、ちょっと驚いた態度を示すことになっている。
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だとすると、多くの人は、本気で福島の状況にビビっている、と考えて良かろう。

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 悪気があるわけではない。差別しているのでもない。ただ、現状の日本では、会話の中に出てくる「フクシマ」という言葉を、自然に受け流しにくい空気が流れている。だからわれわれは、驚いてみせたり、混ぜっ返したり、冗談を言おうとすることで「フクシマ」という言葉を、なんとか消化しようとしている。そういうやっかいな状況なのだ。
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確かに状況は厄介だ。それはしかし、放射性物質が大量にばらまかれた、という事実による厄介な状況である。

「悪気があるわけではない。差別しているのでもない。」

と頭に振っているのは、この厄介さが「悪気」と「差別」とのせいだ、という印象を導くための伏線と思われる。

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 震災から一年を経て、福島の現況は、少しずつではあるが、改善しつつある。
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早川由紀夫氏がツイートで指摘していたが、このあとに、

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 状況は、そんなに変わっていない。改善している部分もあるが、全体としては停滞していると思う。
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と矛盾したことを言っている。これは小田嶋氏が、印象操作を優先して書いていることの反映である。


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 言いたいことはわかる。
 原発でああいうことがあった以上、周辺の地域がいまなお深刻な汚染の中にあることは明らかだからだ。
 でも、局地的な被害を過大に語る人間がいて、そのことが福島という大きな面積を持つ県に住む人々を困惑させていることもまた事実なのだ。
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ここでは、

(1)「周辺の地域がいまなお深刻な汚染の中にあることは明らか」
<でも>
(2)「局地的な被害を過大に語る人間がいる」

という2つの層の「事実」が「でも」で接続されている。こんなことをしてはいけない。

「そのことが福島という大きな面積を持つ県に住む人々を困惑させている」

というが、福島の人々を困惑させているのは、(1)の事実のゆえなのだ。(2)はその派生現象に過ぎない。それは、放射能汚染の事実のデータと、現在われわれが持つ科学的知識が福島の人々に正確に届けられたとしても、人々が困惑せざるを得ないことを考えれば明らかである。ところがそれを、この奇妙な操作により、(2)が困惑の原因だと思わせるようにしている。

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 現実に、
「郡山市に人は住めない」
 というような発言をする人間が、公的なメディアの中にすら存在している。
 いや、これは本当の話なのだ。
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ほう、そうか、と私は思うだけである。「本当の話なのだ」という表現によって、「郡山市に人は住めない」という発言が異常であるという印象操作が行われている。

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 原発から50キロ以上の距離にあり、間に大きな山地を挟んでいる郡山が、「人の住めない土地」だと、記事を書いた人間は本気でそう考えているのだろうか?
 とすると、彼は、今日も郡山の空の下で、その土地の空気を吸って暮らしている三十数万人の市民を、人間とは別の生き物だと判断しているのか?
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これは、揚げ足取りである。「人の住めない土地」に住んでいるのは「人間とは別の生き物」だ、ということには全くならない。世界中には、ものすごく汚染されたゴミ捨て場に住んで、そのゴミの回収によってかろうじて生きている人々が沢山いる。それはもう、臭くて汚くて危険で、とてもではないが人の住めない土地である。そういう人がいる、ということと、彼らが「人間とは別の生き物」だということは、全く違ったことである。そういうことを言っておいて小田嶋氏は言う。

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 いや、揚げ足を取ろうとしているのではない。
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いや、揚げ足を取ろうとしている。間違いなく。それを更に否定してみせるのは、悪質な詭弁だ。

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 ただ、現実に人間が住んでいる土地に対して、「人は住めない」という見出しをつけてしまえる感覚に、私は、どうしても、うまく折り合いをつけることができないのだ。
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それは折り合いをつけられないはずだ。現実に相当の汚染が起きており、本当にそこが安全かどうかわからなくなってしまった場所が、現に人間が住んでいる土地だ、という「事実」に対して、誰もが折り合いが付けられないでいるのだ。しかしここでも小田嶋氏は、「見出しをつけてしまえる感覚」の方に、折り合いを付けられない、というすり替えを行なっている。

これは読者に対して行なっている、というよりも、彼自身が、自分自身に対して仕掛けている詭弁なのだ。なぜこんなことをするかというと、「反射的な反応は無意味で間違っている」という命題を前提にしているからだ。

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 差別だとか、風評被害だとか、大げさに言い立てるつもりはない。
 でも、「郡山市に人は住めない」は、やはり、率直に申し上げて無神経だと思う。
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ここでも先ほどと同じ手口が使われている。彼は、こういう発言は、「差別で風評被害だ」と言っているのだ。

続けて、巧妙で嫌らしい印象操作が行われる。

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 福島の被害を大きめに伝えることで活性化するビジネスや、福島の復興を妨げることで利益をあげるタイプの立場があるということなのだろうか……と、そんなふうに疑いたくなるレベルの記事だ。
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と先ほどの「見出し」を攻撃した直後に、

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 脱原発・反原発を唱える立場からすれば、放射能の恐怖が切実であればそれだけ、運動が展開しやすいという事情はあるのだろう。
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と並べるのである。このように並べることで、

「脱原発・反原発を唱える=福島の復興を妨げるビジネス」

という印象を与えている。

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 私自身、原発は廃止すべきだと考えているし、その意味では、脱原発のために有利なデータは歓迎したいと考える。
 でも、福島の被害が巨大であってほしいとは思わない。それとこれとは別だ。交差点に信号機を設置してほしい旨を訴えることと、そのために人身事故が起こってほしいと考えることは別だ。
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これは、彼が「脱原発」の意味を理解していないことを示している。脱原発というのは、今後の戦略である。それは「有利なデータ」で何とかなるようなものではない。それは我々が今後、どのように生きていきたいか、という意思に関わることである。データ合戦でどうこうなることではないのだ。生き方や世界観という次元のことなのだ。これは、彼がこの問題を真剣に考えてはいないことの反映であろう。

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 今回は、福島について書くことにした。
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今頃言うな。

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 まるで関係の無い話に聞こえるかもしれないが、私は、南京大虐殺についての言論状況を連想する。
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まるで関係がない。

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 ただ、南京をめぐる話が、猛烈にめんどうくさいことになっている点を指摘することで、福島関連の議論が、同じ状況に陥らないように注意を促したいだけだ。
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南京は、加害者と被害者との関係が基本である。それゆえ、これを福島に当てはめるなら、東京電力・政府・原発村と、被曝者との関係とその間の論争に比定せねばならない。

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 福島は、南京化しつつある。これは、とてもよくない傾向だ。
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福島は南京化していない。全然していない。福島では加害者と被害者との共依存関係が形成されつつある。これは非常に厄介な状況である。

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 特定の事件について、二つの対立する勢力が、互いに相容れない見解をぶつけあっている場合、議論は、空洞化する。歩み寄る姿勢を持たない論争は、平行線どころか、より対立を深める方向で推移するものなのだ。
==========

本当にそうか。こんなふうに定式化できるとは、私は考えない。議論が厄介になるのは、双方が詭弁を用いる場合だ。詭弁をやっていたのでは、事態はどんどん悪化する。小田嶋氏の議論は、詭弁の拡大に貢献している。

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 わかりにくいだけではない。一般の人間にとっては、その事件に関わること自体がリスクになる。すなわち、「えんがちょ」だ。触れるだけで汚れが感染する、汚染源みたいな話題――南京大虐殺は、既にそういうタームになっている。テーブルの両側に残っているのは狂信者のみ。一般人は一瞥を送ろうとさえしない。
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南京事件について真剣に実証研究を積み重ねてきた歴史学者の研究を、「狂信者」とレッテル貼りして、読んでいないのだろう。

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 これが冗談で済めば良いのだが、福島をめぐる状況は、現在、南京方向に向けて推移している。
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推移していない。

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 具体的には、原発事故の収束を宣言し、原発の再稼働を企図する人々がいる一方で、反対側には放射線被害の実態を誇張して語る人々がいるわけで、両者ともが、被害や復興の実態を歪曲して伝えているのである。
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「事実を歪曲するな」と多くの人は主張しているのだが。

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 私は、この状況を憂慮している。
 実際、ツイッターや2ちゃんねるを見ていて目を疑うような書き込みに驚かされる機会は、事故から一年を経て、むしろ増えている。
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私も憂慮している。全然収束していない事故を、政府が公式に「収束宣言」するようなとんでもないことに、驚かされる機会が、事故から一年を経て、むしろ増えているからだ。何の根拠もなく、放射能は屁の河童という、焼夷弾恐るに足らずの竹槍精神を振りかざす人が増えているからだ。

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 私が不安説に対して同情的だったもうひとつの理由は、安全率という考え方をなんとなく信頼していたからだ。よくわからないものに対応する時には、大きめの安全率をとっておいた方が賢明だ。後になって事実が判明した時に、避難が大げさすぎたことや、安全策が過剰だったことは、それらが過少だった場合に比べて被害が少ない。
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これは合理的な考えだ。

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 ところが、不安説は、一向に終息しない。
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なにが「ところが」だ。見極めのできない危険性については安全側に立つ、という当然の予防原則を、「不安説が終息しないから」という理由で放棄するとは、驚きの一言である。

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 事態の究明が進んで、比較的安全な地域とそうでない場所の区別が明らかになり、避けた方が良い食べ物と大丈夫な食べ物が分別される状況が整いつつある中で、不安説は、むしろ勢いを増しているように見える。
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本当にそうか?
区別できるのか?
私はそんな根拠はどこにもない、と考える。
いまだに、いったい、どこまでが安全でどこまでが危険なのか、サッパリわからないのである。
こんな大規模で広範囲なよくわからない汚染を、片付ける以前に、どうやって調べたら良いというのか。
呆然とする。

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 私としても、そうそう鷹揚に構えてばかりもいられなくなる。
 しかも、不安説は、個々人の感情的な反応であることを超えて、集団的な圧力を形成しつつある。と、これは、少々やっかいな副作用をもたらす。
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ここにも「個々人の感情的な反応」への軽視がある。それを軽視して押しつぶすことが、「集団的な圧力」を生じさせるのだ。この人間と社会とに対する倒錯した認識が、このような詭弁を生み出すようだ。それに集団的な圧力として作動し、マスコミなどの言説を歪めているのは、放射能の危険を隠蔽する政治的圧力ではないのか。なぜそちらは軽視するのか。

========
 不安のようなものでも、組織化されると一定の「権力」を帯びるようになる。「利権」と呼んでも良い。
 不安利権は、やがてビジネスになり、政治的な運動の体を成すに至る。
 こうなるともはや無害ではない。
 復興の妨げになり、差別の引き金になり、ヒステリーの温床になる。
========

最初から「権力」で「利権」である側は、なぜ無視するのか。事態を軽視して隠蔽しようとする利権を持った集団が、権力を利用して作動していることが、復興を妨げ、差別を引き起こし、人々の精神を不安定にしているのではないのか。

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 で、おなじみの陰謀説が跋扈しはじめる。
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ほう。

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 政府は事実を隠蔽している。
 東電と電通と電事連とマスコミは裏で手を結んでいる。
 記者クラブは経産省の犬だ。
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このあたりは、事実だと私は考えているが。
そればかりか、もっと広い範囲で、社会が隠蔽工作によって作動しているのが問題だと考えている。

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 空間線量を測定する係の人間は地面を水洗いしてから計測している。
 世界中のメディアが日本を笑っている。
 このままでは国際社会の中で日本は放射能テロ国家の認定を受けることになる。
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こうやってちょっとおかしい話と並べることで、前半も異常な妄想だと思わせる印象操作なのだろう。

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 言葉が発明される。レッテル貼りが横行し、リストが作られる。
 誰が御用学者であり、誰がエア御用コメンテーターであるのか。
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考えてみて欲しいのだが、御用学者がどれほどのリスクに晒されているというのだろう。たとえば東大のなかで、御用学者は安泰である。大半の学者はただ黙っている。私のような意見を表明するのは、危険である。「あいつは危険人物だ」とレッテルを貼られ、リストを作られる。それと2ちゃんの御用学者リストと、どっちが危険だと言うのだろう。

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 かくして、議論は死に、論争は南京化し、真実は虐殺される。私は、このことをとても懸念している。
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真実を虐殺するのは、詭弁であり、隠蔽である。

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 最後に、原発事故以降に発明された福島周辺の言葉について解説しておく。
 不毛な議論の周辺では、不毛なレッテルが大量生産され、それらのレッテルが思考停止を招くことになっている。

 用語について説明する前に、他人の言説を「レッテル貼り」と決めつける態度は、それ自体が「レッテル貼り」であるという指摘と、「思考停止ワード」という言葉が、実は最も典型的な「思考停止ワード」である旨について、一応の反論をしておく。

 おっしゃる通り「レッテル」は「レッテル」の一種だし、「思考停止ワード」は「思考停止ワード」そのものだ。
 が、だからこそ、われわれは、「自分たちがレッテルを貼り合っている」ことを自覚すべきなのだ。

 ともあれ、自分たちが使っている「レッテル」と「思考停止ワード」を列挙して、互いにそれを含みおいた上で議論をすれば、論争の不毛さはずっと軽減される。そう考えて、せめてレッテルを貼る時には、そのレッテルに対して覚醒していようではないか。
=======

何を言いたいのか私にはよくわからないが、少なくとも小田嶋氏の文章が、詭弁を解消する方向のものではないことは、確実である。

ここから小田嶋氏は「レッテル」の解説をするのだがあまり面白くない。ひとつだけ取り上げておこう。

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【フクシマ】・・・つまるところ、この言葉を使う人間は、自分が、「国際派の日本人」である旨をアピールしようとしているに過ぎないのである。

 サムライ、ハラキリ、ゲイシャ、ツナミ、などなど、外人さんの視線を背景に語る日本人は、自国の文化や出来事を物珍しい陋習、ないしは恥辱として扱う植民地商人の手つきを……というのは、言い過ぎですね。はい。撤回します。
=======

「そもそも、苦情を受けて引っ込める程度の覚悟なら、どうしてはじめからもう少し穏当な書き方ができなかったんだ?」

と「郡山市に人は住めない」と書いた記者を批判しておきながら、こういうことをするのは、どういう神経なのだろうか。

それ以上に、この「植民地化」の問題は、もっと深刻に我々の社会の言説を覆っていると私は考えている。

=======
 以上です。今回はオチがありません。みなさん。福島に行きましょう。当地には素晴らしい春がやって来ようとしています。大丈夫。安全厨の私が保証いたします。
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オチは十分についている。




============念のため全文を下記に保存======

月末に福島を訪問しようと思っている。
 この話をすると
「え?」
 という反応が返ってくる。
「大丈夫なの?」
 大丈夫に決まっている。福島の人たちは毎日そこで暮らしている。外から出かける人間が、2日か3日現地の空気を吸って土地の食べ物を食べたからといって何が危険だというのだ?
 もちろん、「大丈夫なのか」と尋ねた知人も、本気であぶないと思ってそう言ったのではない。「福島」という言葉を聞いて、反射的にそういう反応をしてしまったというだけのことだ。

 この反応はわりあいに一般的だ。というよりもむしろ、ほとんどの人は、ちょっと驚いた態度を示すことになっている。
「えっ、フクシマ?」
「フクシマ? ヤバくないのか?」
「取材だよな?」
「どうしてよりによってフクシマに?」
「おお、チャレンジャーだな」

 悪気があるわけではない。差別しているのでもない。ただ、現状の日本では、会話の中に出てくる「フクシマ」という言葉を、自然に受け流しにくい空気が流れている。だからわれわれは、驚いてみせたり、混ぜっ返したり、冗談を言おうとすることで「フクシマ」という言葉を、なんとか消化しようとしている。そういうやっかいな状況なのだ。

 震災から一年を経て、福島の現況は、少しずつではあるが、改善しつつある。
 が、そう思っていない人たちもいる。
 一部のメディアやインターネットの特定の掲示板に集う人々は、福島が汚染された地域である旨を毎日のように訴えている。

 言いたいことはわかる。
 原発でああいうことがあった以上、周辺の地域がいまなお深刻な汚染の中にあることは明らかだからだ。
 でも、局地的な被害を過大に語る人間がいて、そのことが福島という大きな面積を持つ県に住む人々を困惑させていることもまた事実なのだ。

 現実に、
「郡山市に人は住めない」
 というような発言をする人間が、公的なメディアの中にすら存在している。
 いや、これは本当の話なのだ。この通りの見出しで書かれた記事が夕刊紙に載ったのだ。本文を読むと、彼の地の空間線量を伝え聞いたアメリカ人の記者が 「信じられない。とてもではないが、人が生活できるような数値ではない」
 と発言した旨が書かれている。

※(リンク先の記事の見出しは、掲載当初、《【原発崩壊】“放射能汚染"の真実…福島、郡山市に人は住めない》だったものが、現在は《【原発崩壊】“放射能汚染"の真実…人体への危険性減らず》に差し替えられています。なお、引用したアメリカ人記者の発言も、現在、削除されています。)

 原発から50キロ以上の距離にあり、間に大きな山地を挟んでいる郡山が、「人の住めない土地」だと、記事を書いた人間は本気でそう考えているのだろうか?
 とすると、彼は、今日も郡山の空の下で、その土地の空気を吸って暮らしている三十数万人の市民を、人間とは別の生き物だと判断しているのか?
 いや、揚げ足を取ろうとしているのではない。
 ただ、現実に人間が住んでいる土地に対して、「人は住めない」という見出しをつけてしまえる感覚に、私は、どうしても、うまく折り合いをつけることができないのだ。

「あんたの着てるシャツは、人間の着るシャツじゃないな」
「この料理、とてもじゃないけど、人の食べ物とは思えないんだけど」
「知らないようだから教えておくけど、おまえの履いてる靴は、チャップリンが食べたのと同じカタチだぞ」

 差別だとか、風評被害だとか、大げさに言い立てるつもりはない。
 でも、「郡山市に人は住めない」は、やはり、率直に申し上げて無神経だと思う。

 見出しを差し替えたのは一応の誠意ではあるのだろう。
 でも、紙面には、「米人記者の発言が無かった」ことと、その部分を「削除した」旨を伝える文言が付加されているのみで、それ以上の背景説明は一切ない。見出しを差し替えたことも、その意図も説明していない。謝罪もない。これでは、実際に何があったのかがまるでわからない。

 そもそも、苦情を受けて引っ込める程度の覚悟なら、どうしてはじめからもう少し穏当な書き方ができなかったんだ?

 福島の被害を大きめに伝えることで活性化するビジネスや、福島の復興を妨げることで利益をあげるタイプの立場があるということなのだろうか……と、そんなふうに疑いたくなるレベルの記事だ。

 脱原発・反原発を唱える立場からすれば、放射能の恐怖が切実であればそれだけ、運動が展開しやすいという事情はあるのだろう。
 私自身、原発は廃止すべきだと考えているし、その意味では、脱原発のために有利なデータは歓迎したいと考える。
 でも、福島の被害が巨大であってほしいとは思わない。それとこれとは別だ。交差点に信号機を設置してほしい旨を訴えることと、そのために人身事故が起こってほしいと考えることは別だ。

 今回は、福島について書くことにした。
 新しいニュースが届いたからではない。
 状況は、そんなに変わっていない。改善している部分もあるが、全体としては停滞していると思う。
 にもかかわらず、私がこういう何でもない時期に、あえて福島の話題に触れたいと考えたのは、福島についての言説が、実際の福島の状況とは関係なく、極端な方向に分裂しつつあるように見えるからだ。福島は、なんだか、ひどい言い方をされている。この状況はとてもまずい。私は懸念している。

 まるで関係の無い話に聞こえるかもしれないが、私は、南京大虐殺についての言論状況を連想する。
 南京事件について意見を言おうとしているのではない。
 ただ、南京をめぐる話が、猛烈にめんどうくさいことになっている点を指摘することで、福島関連の議論が、同じ状況に陥らないように注意を促したいだけだ。
 福島は、南京化しつつある。これは、とてもよくない傾向だ。


 特定の事件について、二つの対立する勢力が、互いに相容れない見解をぶつけあっている場合、議論は、空洞化する。歩み寄る姿勢を持たない論争は、平行線どころか、より対立を深める方向で推移するものなのだ。

 特に、対立する論敵同士が、事件を政治的に利用する目的で自説を展開した場合、両者の議論は、両極端に向かってむしろ分裂して行く。論敵がフェアな相手でないと判断した論者は、自分だけがフェアな態度でいると、論争に負けてしまうと考えて、結果、自らもアンフェアな態度で議論に臨むようになる。かくしてディベートは荒れる。証言は捏造され、証拠は隠蔽され、データは恣意的に引用され、テーブルをはさんだ両者は、相手を貶めることだけを目的に言辞を弄するようになる。

 時間がたつと、真相は事件の発生直後よりさらにわかりにくくなっている。
 わかりにくいだけではない。一般の人間にとっては、その事件に関わること自体がリスクになる。すなわち、「えんがちょ」だ。触れるだけで汚れが感染する、汚染源みたいな話題――南京大虐殺は、既にそういうタームになっている。テーブルの両側に残っているのは狂信者のみ。一般人は一瞥を送ろうとさえしない。

 何十年かたった頃、第一原発の周辺には、原発事故が存在しなかった旨を主張する人々が住んでいるかもしれない。
 そして、一方には、60万人の犠牲者が出たと言い張る団体が謝罪と賠償を求めてシュプレヒコールを繰り返している。
 どちらか一方がウソをついているのではない。両者のいずれもがウソをついている。それも、真実のために、だ。なんということだろう。

 これが冗談で済めば良いのだが、福島をめぐる状況は、現在、南京方向に向けて推移している。
 具体的には、原発事故の収束を宣言し、原発の再稼働を企図する人々がいる一方で、反対側には放射線被害の実態を誇張して語る人々がいるわけで、両者ともが、被害や復興の実態を歪曲して伝えているのである。

 私は、この状況を憂慮している。
 実際、ツイッターや2ちゃんねるを見ていて目を疑うような書き込みに驚かされる機会は、事故から一年を経て、むしろ増えている。
 放射能を排出するためにコメのとぎ汁を沸かした風呂にはいる人たちがいる。で、そういう人たちが「拡散希望」というタグ付きでバラまいているトンデモな放射能情報を、「えっ?」と思う人がリツイートしていたりする。

 ツイッターの醍醐味が、不確実な情報が行ったり来たりするユルさにあることは、わかっている。
 私自身、キース・リチャーズ死去のデマにはモロにまんまとひっかかった。反省している。
 ただ、ロックスターがらみの与太話や、ダイエット周辺の奇妙な信仰は、笑って見物することも可能だが、放射能関連のトンデモはひたすらにグロテスクだ。これは、放置していてはいけない気がする。丁寧にツブして片付けないといけない。瓦礫を放っておくと、足の踏み場が無くなる。

 事故からしばらくの間、私は、放射線の不安を訴える人々の考え方や態度に同情的だった。
 理由は、なにより私自身が不安を感じていたからだ。不安に囚われている人間が、被害の実態を過大に受けとめがちな傾向は、たしかに科学的な態度ではないが、生き物としては正常な反応だ。そう思って、私は、過剰に恐れている人々や、パニックを煽っているように見える言葉も含めて、不安説を唱える人々の態度をおおむね容認していた。仕方がないよね、と。

 私が不安説に対して同情的だったもうひとつの理由は、安全率という考え方をなんとなく信頼していたからだ。よくわからないものに対応する時には、大きめの安全率をとっておいた方が賢明だ。後になって事実が判明した時に、避難が大げさすぎたことや、安全策が過剰だったことは、それらが過少だった場合に比べて被害が少ない。

 ところが、不安説は、一向に終息しない。
 事態の究明が進んで、比較的安全な地域とそうでない場所の区別が明らかになり、避けた方が良い食べ物と大丈夫な食べ物が分別される状況が整いつつある中で、不安説は、むしろ勢いを増しているように見える。
 私としても、そうそう鷹揚に構えてばかりもいられなくなる。
 しかも、不安説は、個々人の感情的な反応であることを超えて、集団的な圧力を形成しつつある。と、これは、少々やっかいな副作用をもたらす。

 不安のようなものでも、組織化されると一定の「権力」を帯びるようになる。「利権」と呼んでも良い。
 不安利権は、やがてビジネスになり、政治的な運動の体を成すに至る。
 こうなるともはや無害ではない。
 復興の妨げになり、差別の引き金になり、ヒステリーの温床になる。

 で、おなじみの陰謀説が跋扈しはじめる。
 政府は事実を隠蔽している。
 東電と電通と電事連とマスコミは裏で手を結んでいる。
 記者クラブは経産省の犬だ。
 空間線量を測定する係の人間は地面を水洗いしてから計測している。
 世界中のメディアが日本を笑っている。
 このままでは国際社会の中で日本は放射能テロ国家の認定を受けることになる。

 無邪気な疑念や、ある程度根拠のある観察から始まったそれらの陰謀説は、集合し、攪拌され、洗練を加えるうちに巨大なデマに成長する。
 こうなるともはやただの瓦礫ではない。
 言葉が発明される。レッテル貼りが横行し、リストが作られる。
 誰が御用学者であり、誰がエア御用コメンテーターであるのか。
 かくして、議論は死に、論争は南京化し、真実は虐殺される。私は、このことをとても懸念している。


 最後に、原発事故以降に発明された福島周辺の言葉について解説しておく。
 不毛な議論の周辺では、不毛なレッテルが大量生産され、それらのレッテルが思考停止を招くことになっている。

 用語について説明する前に、他人の言説を「レッテル貼り」と決めつける態度は、それ自体が「レッテル貼り」であるという指摘と、「思考停止ワード」という言葉が、実は最も典型的な「思考停止ワード」である旨について、一応の反論をしておく。

 おっしゃる通り「レッテル」は「レッテル」の一種だし、「思考停止ワード」は「思考停止ワード」そのものだ。
 が、だからこそ、われわれは、「自分たちがレッテルを貼り合っている」ことを自覚すべきなのだ。

 ともあれ、自分たちが使っている「レッテル」と「思考停止ワード」を列挙して、互いにそれを含みおいた上で議論をすれば、論争の不毛さはずっと軽減される。そう考えて、せめてレッテルを貼る時には、そのレッテルに対して覚醒していようではないか。

【フクシマ】:福島県のこと。原発事故を「ヒロシマ」「ナガサキ」の悲劇と並列させる文脈で語る際に、好んで用いられる。カタカナ表記は、この用語が「国際社会に向けて発信されている言葉」だということを示唆している。しかしながら、「フクシマ」が“Fukushima”でない点に注意すれば、この言葉の使い手が、日本人を対象に向けて語っているのは明らかで、つまるところ、この言葉を使う人間は、自分が、「国際派の日本人」である旨をアピールしようとしているに過ぎないのである。

 サムライ、ハラキリ、ゲイシャ、ツナミ、などなど、外人さんの視線を背景に語る日本人は、自国の文化や出来事を物珍しい陋習、ないしは恥辱として扱う植民地商人の手つきを……というのは、言い過ぎですね。はい。撤回します。

【原発ムラ】:原発利権を防衛するために団結している人々、またはその組織。メンバー構成や利権の配分状況が著しくムラ社会的であり、成員の行動原理がムラビト的(集団志向で、型にハマっていて、頑迷固陋で、秘密主義で、ウチに対しては横暴&従順で、外に対しては不誠実かつ冷酷)であることからこの言葉が使われる。ただし、適用範囲は、使う人間によってさまざま。電力会社社員、安全委員会、原子物理学者、原発選挙区の議員といった主要なメンバーのみを指す場合もあれば、原発労働者、原発シンパ、推進派の一般人、マスメディア社員、優柔不断なコラムニストなどを含めたすべてをムラビト視する論者もいる。私見を述べれば、この言葉を多用する人間は、「ムラ」を利害を共にする集団というよりは、陰謀の主体と見なす傾向が顕著で、ために、見解を異にする人々を迫害しがちで、最終的には自らがムラビト化しやすい。

【御用学者】:原発の推進と存続のために、原子力関係者に都合の良い理論とデータを提供する一群の学者を指す。研究テーマ自体が原発を前提としており、研究費の多くを関係諸団体に依存しているため、何を言っても信用されない。まあ、過去のいきがかりからして、仕方がない部分もある。ただし、誰を「御用学者」とするかについては、常に紛糾している。最も極端な一派は、「冷静に」という言葉を使っただけで、ただちに「御用学者」に分類する。冷静になってほしい。

【エア御用】:御用学者が、国なり原子力業界なりからなんらかの利益供与を受けているのに対して、「エア御用」は、具体的な利益とは無縁でありながら御用学者的な言説を提供している人々を指す。「ボランティア御用」とも呼ばれる。評論家、記者、新聞の解説委員、テレビのコメンテーター、小説家など、立場はなんであれ、原発に対して容認的な発言をする人物は、「エア御用」に分類される。ただしこの場合も、どこまでを「エア御用」とするのかについて、結論は出ていない。ちなみにでんこちゃんは隠れ脱原発だったことが発覚して、エア御用の広告代理店社員によって抹殺されたと言われているが、この最後の一文はエア御用コラムニストによる真っ赤なうそ。

【安全厨】:エア御用とほぼ同じ。ここで言う「厨」は「中学坊主→中坊→厨房→厨」という順序で連想変換された2ちゃんねる由来の接尾辞で、おおまかな意味は「(……を言い張る・に固着する)バカ」といったあたりにある。転じて「安全厨」は、「やたらと安全を連呼したがるアホなヤツ」ぐらいな意味になる。具体的には、原発や放射線について安易に「安全」という言葉を使う学者や評論家のこと。ただし、認定基準が用語使用者の恣意に委ねられている以上、実効的な意味は発言者の見識に依存する。東北新幹線に乗ったことをブログに書いただけで「安全厨」に分類された学者もいる。対義語として「危険厨」がある。

【放射脳】:放射能を過剰に怖がる人々、またその彼らの脳のありよう、およびその結果としての行動形態。主に理科系の学問をおさめた(自称も含む)研究者や、理性派を自認するグループが使う。対象は、反原発運動家や、非科学的な脱放射能健康食品の普及を進めている人々など。当然侮蔑を含んでいる。

 以上です。今回はオチがありません。みなさん。福島に行きましょう。当地には素晴らしい春がやって来ようとしています。大丈夫。安全厨の私が保証いたします。
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  1. 2012/03/23(金) 14:15:49|
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『「東大話法」は単なる“批判”のためのロジックなのか?』という記事の分析

「東大話法」は単なる“批判”のためのロジックなのか?

http://www.cyzo.com/2012/03/post_10208.html


という記事が出ていた。これが面白い研究材料だったので、分析してみた。

===================
『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』(明石書店)

 「東大話法」なる造語が注目を集めている。この言葉を発案したのは、東京大学東洋文化研究所の安冨歩教授だ。安冨教授は今年初めに出版された『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』(明石書店)の中で、「東大話法」なる欺瞞的な物言いを20項目に分類、批判的に分析している。
 安冨教授がこの話法を発案したきっかけは、福島第一原子力発電所事故での学者や官僚たちの安全性を強調する発言だ。中でも安冨氏が「欺瞞的」と批判するのは、東京大学大学院の原子力工学の専門家・関村直人教授。関村教授は一号機が水素爆発を起こした時に「爆破弁を作動させた可能性もある」とコメントした人物だ。安冨教授はこうした発言を「安全と印象づける“欺瞞言語”」だと切って捨て、「東大で見聞きする独特の話しぶりとそっくり」だと指摘。さらに、東大出身者のみならず「正しくない言葉」を用いることが「東大話法」だとする(東京新聞2月25日朝刊)。
 この「東大話法」、いくつか抜粋してみよう。

・規則1  自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する
・規則5  どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す
・規則7  その場で自分が立派な人だと思われることを言う
・規則12  自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する
・規則15  わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する
=================

以上のまとめは、多少ズレているところもあるが、まぁ、それほどおかしなことは書かれていない。ここから、奇妙な話法が顔を出す。

=================
 たしかに、テレビでコメントする御用学者たちに共通している部分がありそうだ。しかし、「東大話法」というレッテルを発案している本人が東大の教授である。何か自分の所属する大学に恨みでもあるのか。あるいは「規則7 その場で自分が立派な人だと思われることを言う」を意図的に実践しているのか。
=================

これは、「新規則」の「読まずに批判」の典型である。私の本にはこう書いてある。

私には、私を雇用し、自由に研究させてくれているありがたい職場である東大を攻撃する意図はありません。・・・私が本書を書くことにしたのは、私たち自らが「東大話法」の最大の被害者であり、それゆえにこそ他者を加害している、という辛い事実と向きあうべきだと信ずるからです。・・・私は、東京大学を「東大話法」の呪縛から解法することが、東京大学で禄を食む者としての使命であり、それによって原発事故をはじめとする構造的困難に直面する日本社会に貢献する道にほかならない、と思うのです。(16〜17頁)

この引用から明らかなように、昼間たかし氏は、拙著を読んでいない。

========
発想の原点が「原発事故で安全性を強調する発言」だというが、情報がない中で話しているんだから当然といえば当然だし、逆に情報もないのに「もうダメです……」なんてコメントされたほうがパニックになりそうだ。
========

「発想の原点が「原発事故で安全性を強調する発言」だというが」と言っているが、これも私の言っていないことである。東京新聞の記事では「発想の原点」ではなく、「着想のきっかけ」だと書いてある。両者は意味が全く違っている。発想の原点がどこにあるかは、本を読めば明らかなのだが、新聞記事しか読んでいないので、こういう誤読をする。それに、私がいつ「もうダメです」などと言えと言ったのか。これは、この著者が、私を「反原発」と勝手に分類して、レッテル貼りをして、その言動を捏造しているから、こういうことになるのである。

規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。

である。

=======
 1999年に東海村JCO臨界事故があった際、反原発の集会で広瀬隆が「もう東京は終わりだと思った」と語り、コンピューター2000年問題による原発の危機をあおったが、これは「規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する」か、あるいは「規則5 どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す」なのか。
=======

拙著と何の関係もない話である。

=======
 ひとまず原発の是非は置いておいて、やはり気になるのは「東大話法」なる新たなレッテルの登場に、東大出身者はどういった感想を抱いているのかということ。 
=======

「東大話法」は「レッテル」ではない。

=======
「そんなことあるわけないでしょ。この著者は相当、嫌なヤツですね……」
 と率直に話してくれたのは、東大工学部出身の松本准平さん。東大に通いながら吉本総合芸能学院(NSC)東京校に通ったり、今年5月には全国公開予定の映画『まだ、人間』で商業監督デビューを果たすなど、型破りな人物。それだけに期待して「東大話法」の感想を求めたのだが、最初に飛び出したのがこの言葉である。
=======

明らかにこの松本准平という「相当、嫌なヤツ」もまた、拙著を読んでいない。読みもせずに「そんなことあるわけない」と断言するのはなぜかというと、この人物が、東大話法の話者だからだ。東大話法の話者は、全ての人間が、同じように話をしている、と信じているので、自分の話法が特殊で異常であることが、わからないのである。

=======
「“東大話法”とされるような言葉を使う人がさほど大勢いるとは思いません。とはいえ、“東大話法”のようなレッテルを貼っての批判も一定程度、評価できるところがあります。これも、不安を抱えて何かに依存するしかない現在の人間の姿だと思うからです。
=======

この文章は何を言っているか、サッパリわからない。何をしているのかというと、否定したり、評価したりして、

規則19 全体のバランスを常に考えて発言せよ。

をやっているのである。

========
僕は映画に携わっていますが、僕の劇場デビュー作『まだ、人間』では、今の僕と同世代の若者の“リアル”を捉えようとしました。あらゆる価値が混沌とした時代に、いつの間にかカネに依存したり、宗教に依存したり、恋愛関係に依存したりするのは弱い私たちの常だと思います。
========

というのは、

規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。

である。私の言っている話と何の関係もないことを、「東大話法」と関係付けて牽強付会している。そしてここで言っているのは、ただの自己宣伝に過ぎない。

========
東大話法なんて、僕だって誰だってどこかで使ったことがあるのではないでしょうか」
========

これは、

規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。

である。

=========
 「東大話法」をめぐっては、東京新聞は人気ページ「こちら特報部」で大きく紙面を割いて紹介。インターネット番組『マル激トーク・オン・ディマンド』で安冨教授がゲストに招かれた際には、首都大学東京の宮台真司教授が賛意を示すなど、本の発売以来2カ月余りのわずかな期間で、知識人を中心として、安冨教授への賛意は広がっている印象だ。
=========

この箇所はウィキペディアの「東大話法」の項目 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E8%A9%B1%E6%B3%95 からのパクリである。おそらく、トークの方は見ていないだろう。

=========
 しかし、相手を批判するための新たなロジックとして利用するだけでは、5年も経たずに忘れ去られてしまうかもしれない。
=========

なんのこっちゃ!!
意味が全くわからない。日本語になっていないのである。「相手を批判するための新たなロジックとして利用するだけでは、5年も経たずに忘れ去られてしまうかもしれない。」という文章の主語は「東大話法」だろうか、「安冨歩」だろうか。何かを「利用する」なら主語は人間だろう。しかし、私は自分で「東大話法」を提唱しているのだから、「利用」しているのではない。主語が「東大話法」なら、「利用する」のはおかしい。後半の、5年も経たずに忘れ去れるといっているのは、「東大話法」の方だろう。もし「安冨歩」だというのならお笑いである。私は、世間に覚えてもらっているかどうかなど、昼間氏と違って全く気にしていない。結局のところ昼間氏は、このような奇妙な文章を書くことで、「東大話法」と「安冨歩」との双方を侮辱したいのであろう。

=========
(取材・文=昼間たかし)
=========

そういうわけで、この人物が、拙著を読みもせずにいい加減な記事を書いたことは、以上で明らかである。この文章は、何らの根拠ものなく、悪印象をつくりだす悪質なものである。この手口は、池田信夫氏の拙著に関する一連の記事と構造的によく似ている。拙著を読まずに悪口を書くのも、日本語読解力の欠如も、池田氏とそっくりである。どうも私の「東大話法」研究を貶めようとする者は、「東大話法」を使ってしまい、私の議論の補強材料を提供するに終わるようである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%BC%E9%96%93%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97 によると、昼間氏は、東大ではなく、立正大学のご出身だそうである。この大学の第16代学長は、私が昭和期の日本人として最も尊敬する石橋湛山である。昼間氏には、東大出身者に阿るような駄文を書くのではなく、石橋湛山のジャーナリズム精神を継ぐ、まっすぐな文章を書いて欲しいものである。

【追記】昼間氏のツイッターを見たら、「東京大学大学院情報学環教育部研究生」と書いてあった。これは、情報学環が新聞研時代からやっている、外部向け(内部も受けられるが)のジャーナリスト塾みたいなものである。つまり、東大話法を勉強しに行って、すっかり感染してしまったらしい。
  1. 2012/03/22(木) 21:57:28|
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コンポジウムのご案内:「原発事故で何が吹き飛んだか? ~日本社会の隠蔽構造とその露呈~」

<「魂の脱植民地化」を考えるコンポジジウム>

「原発事故で何が吹き飛んだか? ~日本社会の隠蔽構造とその露呈~」


≪開催趣旨≫
福島第1原子力発電所の事故から一年が経過しました。あの事故は何だったのか。あの事故によって何が明らかになったのか、を考えるコンポジウムを行うこととしました。この形式は、私たちの研究会で過去、何年も行っているもので、「コンポジウム」=「コンサート」+「シンポジウム」という意味で、音楽と学術との融合を目指すものです。ここで展開する議論の目的は、なんらかの「合意」を形成することではなく、参加した者、一人一人が、なんらかなの新たな気づきを得て、それぞれに考えを発展させることです。このコンポジウムを通じて、この事故のもつ意味と、これからの道を、それぞれに考えたいと思います。

日時:2012年3月28日:午後13時開場・13時30分開始・17時終了
場所:東京大学・本郷キャンパス・経済学研究科棟第一教室
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_08_02_j.html

参加無料、事前登録不要

【主催者】
安冨歩教授(東京大学・東洋文化研究所)・社会生態学・魂の脱植民地化研究・「東大話法」研究。

【司会】
深尾葉子准教授(大阪大学・経済学)・社会生態学による人間・社会・環境の相互作用プロセスの研究・魂の脱植民地化研究、環境問題のグローバルマネジメント論。

<学術関係>

【報告者】
真鍋勇一郎助教(大阪大学・工学)・核物理。核物理の理論分野出身。原子力人材育成関連のポスドク、原子力プロジェクト研究員を経て、09年より助教。シミュレーションが専門。事故後、核物理分野の研究者が発起人の飯舘村の土壌調査に参加。

【パネリスト】
島薗進教授(東京大学・人文社会系)・宗教学。東京大学原発災害支援フォーラムの発起人。

早川由紀夫教授(群馬大学・教育学部)・火山学。国会でも取り上げられた「早川マップ」の作成者。

<芸術・音楽関係>
【音楽】
千葉泉教授(大阪大学・人間科学)・ラテンアメリカの民衆文化とその実践的応用。研究と共に、自ら作曲・演奏する。今回は歌手として。

【芸術】
赤城修司(福島市)・福島の高校美術教員。今回は福島市の日常物を利用したインスタレーション「何も変わってないのに、何もかも変わってしまった。」を展示。

【パネリスト】
高橋健太郎(音楽評論家・音楽家)・人間が幸福に生きることが原発を止めること。

【ゲスト】
岩上安身(IWJ代表) このコンポジウムを、IWJで中継しながら、ご発言いただきます!


<式次第>
(1)千葉さんの歌でオープニング
(2)真鍋さんによる原発事故の全容と今後についてのご報告(40分程度)
(3)赤城さんの展示物の紹介
(4)以上を受けて、各人が20~30分程度のパワポを用意して、適宜その報告を織り交ぜながら、これからどうすべきかを議論していく。間に千葉さんの歌を挟む。

<主催>
東京大学東洋文化研究所 安冨研究室
連絡先:安冨研究室 03-5841-5849 animus@ioc.u-tokyo.ac.jp

テーマ:お知らせ - ジャンル:その他

  1. 2012/03/10(土) 12:00:00|
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ロバート・ゲラー教授の地震予知批判の記事

東京大学大学院理学研究科のロバート・ゲラー教授のインタビュー記事が、『夕刊フジ』に出ている。ゲラー教授は、かねてから、地震予知が不可能であることを、地震学者は正直に国民に言うべきだ、と主張している。そのため東京大学の地震学の教授だというのに、テレビでは、「たかじんのそこまで言って委員会」しか呼ばれず、週刊誌に出るくらいで、新聞となると、『夕刊フジ』になってしまうのである。恐ろしい国である。ゲラーさんにそのことを申し上げたら、

「本来のマスコミ(NHKなど)は(記者クラブ制度のため?)責任を怠っています。その代わりに本来ふざけているはずの媒体(たかじんの番組、週刊誌、タブロイド紙など)は(ときに)まともな報道をちゃんとしていることになりました。」

と言っておられた。恥ずかしい限りである。せめて東京新聞あたりは、報道して欲しい。

記事はこちら。

↑上の記事の「せめて東京新聞あたりは、報道して欲しい。」とかいうのは私の勘違いでした。ゲラーさんが言っておられたのは、NHK限定のことでした。以下のメールをいただきました。

「念のために、これまでの1年間で主要新聞(漏れなく、東京新聞を含めて)及び通信社は私の地震予知体制に対して批判を丁寧に取り上げてくれました。テレビ朝日の朝のニュース番組も、フジテレビの夕方のニュース番組も1度ずつ。でも、知っている限りNHKはこれまでの1年間に1度でも地震予知(いわゆる東海地震を含めて)ができないことを報道していません。」
  1. 2012/03/09(金) 17:01:36|
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大橋弘忠教授の「東大話法」による逆襲

「格納容器は一億年に一回しか壊れない」「プルトニウムは飲んでも大丈夫」で有名な大橋弘忠教授が、「プルサーマル公開討論会に関する経緯について」という凄い文書を出した。こんなものを書いて、何がおかしいのか、わからない、そういう人物が東大教授をやっていて、原子力を弄んでいる、ということを、広く国民に知っていただく意味で、非常に貴重な文書なので、魚拓をとっておいた。まぁ、本人がどこがどうおかしいのか、わからないのだから、削らないとは思うが、周囲から圧力が掛かると削るかもしれないので、念のため。

以下、東大話法のサンプルとして、解析しておく。

何よりも、格納容器は壊れない、など、いわゆる原発推進トークを連発しておいて、それが事実によって否定された、という点を、完全に無視していることが、この文書の恐ろしいところである。そういうことが、認識から自動的に排除されるようになっているのである。これは、大橋氏が特別に変わった人だから、ではない。原子力関係者は、基本的に、こういうふうに考えているのである。こういう連中に原子力などを弄ばせてよいものか、本当に良く考えないといけない。

ついでに言うと、この文書を、東大教授や東大生に見せても、キョトンとして、「どこがおかしいの?」思う人が大半ではないか、と私は疑っている。エリートには、こういう人が実に多いのである。ただ、大半は、大橋教授ほど馬鹿ではないので、そういう人間であることは、バレないようにしている。


============



プルサーマル公開討論会に関する経緯について

2012年2月28日
東京大学 大橋弘忠

プルサーマルに関して、これまで週刊誌で取り上げられ、ネットでも話題になっていることから、先輩後輩、同僚、友人、教え子、研究室学生などの方々に参照いただくため、ここに経緯をまとめておきたい。



いきなり意味がわからない。そういう身内に対して書くなら、直接、メールを送ればよさそうなものである。なぜわざわざ、こういう公開の場に書きながら、こういうことを言うのだろうか。「東大卒でもないお前らなんか、相手にしていないからな」という嫌がらせなのだろう。



1.プルサーマル公開討論会の本質

2005年12月に佐賀県主催で行われた討論会に登壇した。議事の様子は佐賀県のホームページで公開されている。

この討論会は、原子力の是非そのものではなく、プルサーマルを実施するにあたって安全上の問題がないかどうかを問うもの。私からは、安全確保の考え方を踏まえてプルサーマルは普通の燃料を使う場合と比べて同じ安全余裕をもっていることを説明した。

客観的に見て、プルサーマルに安全上の課題はない。技術的な問題点を追及するのは難しいだろう。これもあってか、反対派からは、水蒸気爆発が起こるのではないか、プルトニウムは1グラムで100万人が死ぬ、といった反原子力の一般的なプロパガンダが提示された。


開始早々、強烈である。「私からは、安全確保の考え方を踏まえてプルサーマルは普通の燃料を使う場合と比べて同じ安全余裕をもっていることを説明した。」というが、大橋氏はそういう<主張を一方的に展開>していたのであって、<説明>をしていたとはわたしには思えない。以下で確認して欲しい。



彼がここでやっていたのは、

規則5 どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。

ではないかと私は思う。

その上で、「客観的に見て、プルサーマルに安全上の課題はない。」と、見事に、

規則12 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。

に従っている。「技術的な問題点を追及するのは難しいだろう。」というが、それは彼が勝手言っているだけである。

「これもあってか、反対派からは、水蒸気爆発が起こるのではないか、プルトニウムは1グラムで100万人が死ぬ、といった反原子力の一般的なプロパガンダが提示された。」

というが、

規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。

をやっている。自分こそ「推進派」の「一般的なプロパガンダ」をやっている、というのに、よく言うよ、である。


2.説明責任

推進派であろうと反対派であろうと、何か技術的なことがらを主張する際には、その根拠やそう思う理由を説明することが必要だ。それで、水蒸気爆発が起こるという根拠は何か、プルトニウム1グラムで100万人が死ぬと思う根拠は何かを聞いた。

水蒸気爆発については、根拠がないということだった。ちなみに、水蒸気爆発が起こるためには、溶けた金属が細かく分散してエネルギーをその場で静かに蓄える状態が不可欠。原子炉事故の場合には水蒸気爆発は起こらないと考えられている。

プルトニウム1グラムで100万人については、単に理念的な話をしているだけで、現実には起こり得ないこと、プルトニウムが水に溶けにくいことなどを指摘した。これもちなみに、米国でプルトニウムを誤って吸引した事故があり、また核実験で大量のプルトニウムが大気に放出されているにもかかわらず、これまでプルトニウムで死亡したという症例は確認されていない。


「推進派であろうと反対派であろうと、何か技術的なことがらを主張する際には、その根拠やそう思う理由を説明することが必要だ。」というのはその通りだが、水蒸気爆発が起こらないことや、プルトニウムの安全性を証明する責任を負うのは、原発を運営している側あるいはその代弁者なのだから、大橋教授がそれをしないといけないのである。

「それで、水蒸気爆発が起こるという根拠は何か、プルトニウム1グラムで100万人が死ぬと思う根拠は何かを聞いた。」

というのは、

規則3 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。

である。


3.プルトニウムは飲めるか

プルトニウムは水に溶けにくいので、仮に人体に入っても外へ出ていく、と述べたのが、それならプルトニウムは飲めるのか、飲んでみろ、となっているらしい。文脈を考えればわかるのに、いまどき小学生でもこんな議論はしないだろう。


いきなり小学生を侮辱しているが、小学生に失礼極まりない。

規則10 スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。

である。プルトニウムが水に溶けないからといって「安全だ」というのは、それこそ文脈を考えてみれば、無茶苦茶な議論であることは、明らかであろう。水に溶けないことが、被曝した者にとって有利になるか不利になるかは、状況次第である。自分こそ、文脈を無視して、無茶苦茶な詭弁を弄するくせに、よく言うよである。

規則6 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。

が使われている。


4.話し方について

上のような経緯で、反対派の識者を追及し、追い詰めているように思われるのだろう。不遜だとか話し方が気に食わないという指摘を受ける。イデオロギーにあふれた原子力反対の立場からみれば、そういう強いバイアスで見ているからだと思う。受け取り方なのでどうしようもない。

ただ、自分のイデオロギーのみに基づいて、それに合うか合わないかだけで、これは正しい、あれは間違いという単純なスタンスは、何なのだろう。



あの陳腐な詭弁で小出さんらを追い詰めたつもりだ、というのが、まず驚きである。もし追い詰めていたのなら、無礼を働いてイエローカードを出されたりはしないはずだ。追い詰められていたことを自覚しているから、ああいう愚かな振舞に出たのである。彼の言葉のおかしさは、イデオロギーの問題ではないことは、『原発危機と「東大話法」』で説明してあるので、読んで欲しいものである。

「ただ、自分のイデオロギーのみに基づいて、それに合うか合わないかだけで、これは正しい、あれは間違いという単純なスタンスは、何なのだろう。」

というのは、まさしく、彼自身の態度である。これは東大話法を使う人の特徴で、自分の属性を、自分の相手に押し付けるのである。


5.「やらせ」事件

この討論会について、九州電力のいわゆる「やらせ」が問題となった。私は、佐賀県から依頼されて登壇したもので、話す内容や質疑などについて九州電力からの連絡は一切なかった。

客観的にみれば、この種の討論会は、推進派も反対派も動員をしてそれぞれの立場から質疑を行うのは当然であり、違和感はない。国会答弁でも何でも同じだろう。目立ちたがり屋の弁護士さんが「やらせやらせ」と言い出し、それに社会全体が翻弄されただけではないだろうか。


また「客観的にみれば」である。

規則12 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。

「この種の討論会は、推進派も反対派も動員をしてそれぞれの立場から質疑を行うのは当然であり、違和感はない」

と堂々と言っていることろが凄い。世の中、自分と同類の卑怯者だけでできている、と確信しているのである。それに、権力と利権とを持った主催者側が、そういう手口を使うのと、そういうものが無い側が動員するのとは、意味が全く違う。「目立ちたがり屋の弁護士さん」とひどいことを言うののは

規則10 スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。

の応用である。


6.マスコミ報道

この件に関しては、マスコミからの取材をすべてお断りしている。回答したことはない。技術的にわからなければ聞きに来れば良いのに、こちらへの連絡からしてそもそも、原子力反対の立場で問いを投げかけてくるものが多い。おそらく記事構成もすでに決まっているのだろう。

まったく面識のないある週刊誌記者は、いきなりメールを送りつけてきて、その日の何時までに文書で回答せよとのことだった。一体何様なのか。


この点にかんしては、東大工学部から、関係者に勝手に発言しないようにと、緘口令が出ている、と大橋教授は私へのメールで言っていた。これは重大な問題だと考えるのだが、東大本部は何ら調査しない。

「技術的にわからなければ聞きに来れば良いのに、こちらへの連絡からしてそもそも、原子力反対の立場で問いを投げかけてくるものが多い。」

というのは、日本語が変である。

規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。

であろう。

「まったく面識のないある週刊誌記者は、いきなりメールを送りつけてきて、その日の何時までに文書で回答せよとのことだった。」

記者は、締め切りのある記事を書いているのだから、いついつまでに返事してくれたら、記事に載せます、と書くだろう。何を怒っているのだろうか。

「一体何様なのか」

というが、そのまま大橋教授に言いたい。あなたは一体、何様なのか、と。
  1. 2012/03/04(日) 00:56:37|
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