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マイケル・ジャクソンの思想

性的少数者もLGBTも、存在しない。性同一障害だって、存在しない。

今日、映画館ラピュタ阿佐ヶ谷にある劇場ザムザ阿佐ヶ谷で、新宿区議の依田花蓮さんとお話した。そのなかで、私の考えがまとまったので、ご報告する。

最初に、要旨をまとめておこう。

・存在するのは、差別という暴力である。
・被害者がその暴力を内在化すると、自傷あるいは他傷が生じる。
・この暴力から生じる傷は実在する。
・この傷から生じる痛みは実在する。
・この傷がコミュニケーション的に治癒し得ないのであれば、医学的治療(ホルモン投与や性器変形手術)を施すしかない。
・社会的暴力によって発生した傷の治療には、当然、保険が適用されるべきである。

★私が参議院議員になれば、戸籍の性別変更の暴力的条項の改正を目指す。
★私が参議院議員になれば、この傷の治療の保険適用を目指す。

=========

以前から私は、LGBTなど存在しない、と主張してきた。存在するのは、性自認や性的指向を口実にした差別だけだ、と考えてきたからだ。存在するのは、差別する人、だけである。彼らは、どんなことだって構わない、差別する適切な口実があれば、差別する。

しかし、差別の被害者が、そのことを真面目に受け取って自分たちをカテゴリー化し、

「自分は性的少数者だから差別されるのだ」

と思ってしまい、そのことを自分の「アイデンティティ」だと思ってしまうと、大変なことが起きる。なぜなら、それは白眼視する差別者の視線を実体化し、それを自分自身に内在化させてしまうからだ。そのとき、暴力そのものが、内在化される。

内在化された暴力が自らに向かうとき、それはひどい痛みとして作動する。
内在化された暴力が他人に向かうとき、それはひどい差別として作動する。

こうして暴力の連鎖が起きる。だから私は、被差別者は、差別者の口実に応じたカテゴリーを受け入れてはならない、と主張する。

ゲイもレズビアンも存在しない。同性愛を口実に、白眼視する愚か者がいるだけだ。
トランスジェンダー/セクシャルも存在しない。性自認を口実に、白眼視する愚か者がいるだけだ。

そして、性同一性障害などまったく存在しない。

そもそも、「性同一性障害」は誤訳だ。Gender Identity Disorder という英語の disorder は、もともと、order が秩序であるから、無秩序や混乱を意味する。医学用語ではたとえば、

disorder of autonomic function 自律神経機能(の)障害

というような用例があるが、これは、自律神経という身体の機構がちゃんと作動していない、という状態を表す。それゆえ「障害」と無理に訳せなくもない。

これに対して、Gender Identity Disorder の場合の Gender Identity は、身体の機構ではない。それは抽象的概念である。抽象的概念が「不調」になったりしない。それゆえこれを「障害」とは訳せない。この場合の Disorder は「無秩序、混乱」を意味する。男の身体なら、自分を男だと思うのが「秩序」であり、「女」の身体なら、自分を女だと思うのが「秩序」であって、逆になっていれば「無秩序、混乱」ということになる。

それに Identity というのは日本語に訳せない厄介な言葉である。「同一性』と訳しても、なんのことかわからない。これはおそらくキリスト教を背景にした宗教思想が背景にあって、日本語の世界観と合致していないのである。この場合の意味は、「性自認」とでも訳すほうが意味が通じると思う。

それゆえ、Gender Identity Disorder は「性自認の混乱」とでも訳すのが適当であろう。

さて、この disorder という言葉の背景には、男なら男、女なら女という性自認が「正しい」という前提がある。その前提が order =秩序、であり、そこからの逸脱が disorder =混乱 ということになるわけである。

しかし、そんなことを言われる筋合いはどこにもない。別に男の体に生まれてきたからと言って、自分が女だと思うのは、その人の勝手である。それが「混乱」だというのは、言いがかりに過ぎない。つまり、この言葉そのものが差別なのである。このような差別用語で、自分自身をカテゴリー化してはならない。それはひどい暴力の連鎖を引き起こす。

そして、gender reassignment surgery つまり「性別適合手術」という概念もまた欺瞞的である。なぜなら、reassignment は、assignment をやり直す、という意味であるが、この assignment というのは、生まれたときの医者による性別の判別を指す。その判別を手術でリセットしてやり直してやろう、というのがこの言葉の意味である。

しかし、医者にどうしてそんな権利があるのだろうか。そもそも、性器の形状を改変しても、別の性に移行できるわけではない。男性器を女性器に似せることはできるが、女性器の機能を持つわけではない。端的に言えば、子どもを生む力は、決して得られない。逆もまたそうである。それどころか、この手術を受ければ、生殖機能を失ってしまうのである。

結局、見た目だけの問題であるから、これは、性器変形手術でしかない。この変形を施せば、別の性になる、というのは、お話に過ぎない。

以上のように考えるので私は、性的少数者もLGBTも性同一障害も、そして性別適合手術も、存在しない、と考える。

では、これらのカテゴリーによる差別を受けている人は存在しないのでろうか。
とんでもない。
猛烈な差別がここに存在し、その暴力によって痛めつけられている膨大な数の人が存在する。
目に見える人ばかりではなく、自分の中にある性的指向や性自認に罪の意識を感じ、それを押し隠し、苦しみ、ついには自死する人は後を絶たない。

ここには、すさまじい暴力が蔓延している。
そして、膨大な数の人が、深刻な傷を受けている。
この傷は、実在する。
そして、この傷は、社会的暴力によって生み出された。

いわゆる「性同一性障害」に苦しみ、自分自身を傷つけてしまうほどに痛みにのたうちまわる人々は、実在する。
しかし、それでも、この症状は、社会的なものである。
もし無人島に生まれ育って、ひとりぼっちであれば、性同一性障害になる可能性などない。
その人が「男」であっても、自分が「男」であることを意識することがないからである。
しかし、脳溢血やガンは違う。ひとりぼっちでも、そういう病気にはなる。
それゆえ、「性同一性障害」という痛みは、社会性を前提としている。

これらの痛みは、深刻な傷害によるものである。
それゆえ、もしこの傷に苦しむ人々がいれば、その痛みを癒す必要がある。
その痛みは、外在的暴力によって形成されたものであるが、しかしそれを一旦、内在化してしまえば、自傷的に傷は拡大し、コミュニケーション的には、治癒不能になってしまうこともある。

そうなると、性ホルモンを打ったり、性器変形手術を施す必要も生じる。
これらの治療は、本質的な治癒ではないが、そうしないと生きられないのであれば、そうするべきである。
そしてその治療を受けるかどうかの決定権は、患者にあるべきだ。
もちろん、これらの治療には様々の副作用があるから、十分な知識提供は必要であるが、判断する権利は患者のものであるべきだ。
六ヶ月にもわたる精神科医のご機嫌取りを課す現在の制度は、間違っている。

それに、これらの傷は、社会的暴力によって発生したものであるから、当然、その治療には、保険が適用されるべきである。これらは「障害」ではなく、「傷害」なのである。病気ではなく、社会的暴力によって生じたケガなのだ。ケガの治療はできるだけ早くするべきだし、当然、保険が適用されるべきである。

最後に私がなぜ、こういう治療を受けなかったかを、簡単に述べておく。
私は女性装を始めたときに、こういう治療を受けるべきではないか、と深刻に考え、強烈にその欲望を感じたが、やがてその必要を感じなくなった。
私が、スカートを履いて街に出たときに、強烈な白眼視を受けた。
その白眼視が、その治療を受けたいと感じる理由であった。
しかし、やがて私は、誰もが私を白眼視するのではなく、一部の人がそうするに過ぎないことに気がついた。
問題は、私がスカートを履いていることにではなく、白眼視してしまう人にある。
そいつらが「変態」なのであって、私が「変態」なのではない。
このことに気づいて私は、自分の性自認について、それがなんの問題でもない、と感じるようになり、治療を受ける必要を感じなくなったのである。
そして、ノンホル・ノンオペのままで女性として暮らそうと、決意した。

もちろん、これは私の場合であって、傷の痛みのために生きられないのであれば、治療を受けるのは自由であるべきだ。そしてその決定権は医者にではなく、本人にあるべきだ。









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  1. 2019/07/15(月) 02:26:47|
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やすとみ歩はなぜ馬で選挙をするのか?

馬選挙


 日本では、長い年月にわたって人類と共に暮らしてきた馬を、モータリゼーションによって徹底的に暮らしから排除してしまった。欧米先進国では、その数は限られているとはいえ、馬が暮らしと繋がっており、いろいろな場面で目にすることができる。
 現代の都市は徹底的に記号化されている。先に人間の頭で記号操作が行われ、それに応じてコンクリートで固められおり、あらゆる場所が綿密に覆われている。それゆえ、我々は記号に取り囲まれて暮らしている。その状況が我々を苦しめており、さまざまな社会的問題の根源になっている。
 馬は、私たちのこの問題を照らし出し、その状況を変革する力を持つ動物である。せめて欧米諸国くらいには、馬を生活に取り戻して良いのではなかろうか。その馬の力を活用する社会をもう一度志向してはどうだろうか。
 このことを人々に知ってもらうために、私は馬を用いた選挙を構想した。


<馬に頼って社会を立て直そう>

 馬は個体識別が苦手である。それゆえ誰が乗っても、ちゃんと乗れば乗せてくれるし、「馬泥棒」が簡単なのもそのためである。「飼い主」という認識がない。
 とはいえ馬は高い知能と感受性を持っている。彼らは、自分の目の前の行為に反応する。それゆえ非常に、寛容であり、どんなに間違ったひどい対応をしたとしても、その直後に正しい対応をすれば、その前のことは関係なく、正しい対応を返してくれる。
 これに対して人間は、個体識別に深く依存する動物である。我々の大脳がこんなにも発達した理由のひとつは、個体識別し、その履歴を記憶するためだといってよかろう。
 しかし、人類は大きな社会を形成するようになった。都市においては個体識別は役に立たなくなっていく。東京の街を歩けば、知っている人と出会うことは、まずない。こうして個体識別が機能しなくなる。我々の社会の抱える問題の根源のひとつは、このことにある、と私は考えている。
 私は『論語』の思想を研究しているが、その中核である「礼」という概念は、馬のコミュニケーションを参考にしているのではないか、と考えている。「礼」を、個体識別に依存するのではなく、人と人とが出会った場面における、適切なコミュニケーションの作法の交換を社会の基盤としよう、という思想、ある振る舞いに対して、適切な振る舞いで応え、その応答で社会を構成する、という考え方だと見ている。これは、馬の群の形成や、あるいは、馬と人との関係の形成のあり方と、よく似ている。『史記』によれば孔子の最初の仕事は牧場長であり、長じては多くの馬を飼って大切にしていたことが『論語』からも伺える。
 これに対して法家は、事前に決定された規則で合理的に処理しようと提案した。現代社会は極端な法家アプローチを採用している、と見ることができる。そしてそれが、我々の社会を記号化し、コミュニケーション不全を引き起こしている、と私は見ている。
 この状況からの離脱には、儒家的な礼の復活が有効であるが、残念ながら、我々現代人は、その身体的基盤を既に喪失しているように私には思われる。
 この問題への対処の重要な方法が、馬との関係の回復だ、と私は考えている。馬という偉大な動物には、そのようなコミュニケーション空間の形成能力がある。
 馬になぜ人間を癒す力があるのか。
 私が感じることは、その大きさである。馬に乗せてもらうことは、子どものころに抱っこやおんぶをしてもらった経験と通じるものがある。そういう愛情の不足を補ってくれるのかもしれない。
 また、鋭敏な知覚力を持っており、接する人間の心の状態を、本人の気づかないレベルで察知し、さまざまな形でフィードバックを返してくれる。これが、私たちの学びを引き出す大きな力を持っている。
 また、馬は、牛や豚や羊や山羊とちがって、角も牙もない。鋭敏な耳や目で危険を察知して、強力な筋肉で逃げる、という方法で生き延びてきた動物である。それゆえ、積極的な攻撃性を基本的に持っていない。強大でありながら、攻撃性が弱い、ということが、強い力によって傷つけられた人間の怯えを取り除く効果があるのかもしれない。
 馬とのコミュニケーションは、暴力も、命令も、お願いも、通用しない。強く大きな動物であるから、人間の暴力は簡単には通用しないし、馬を怯えさせると暴れてしまうので、逆効果である。言葉を理解しないので、命令しても何も通じない。言うまでもなくお願いをしても仕方がない。馬とのコミュニケーションは、全人格的な語り得ぬ力を用いるしかない。
 現代社会において我々は、往々にして、暴力か、命令か、お願いか、を通じてコミュニケーションをしているつもりになっている。しかし、本当に必要なことは、人間同士においても、全人格的な語り得ぬ力なのである。この力を我々が失っていることが、現代社会がコミュニケーション不全に陥っている大きな原因である。
 そして馬は、個体識別をあまりしないので、任意の人と平等に接することができる。犬は人間と共に暮らす代表的動物であるが、強く個体識別するので、その癒しの力の及ぶ範囲が限られる。
 しかも、セラピーの仕事を担う動物は、往々にして強いストレスを受けて寿命が縮むことがあるのに対して、馬はそうではない。セラピーホースが、他の馬に比べて、何らかの健康上の悪影響を受けることはない。
 馬に頼って、社会を立て直そう、と私は考えているのである。


<私は馬に救われた>

 私がこのように考えるに至った背景には、個人的な経験がある。私は永年にわたって、非常に強い不安感に苛まれてきた。その苦悩の背景には、幼少期の親子関係があたっと考えているが、たとえ、その原因を認識しても、不安感を止めることはできなかった。
 しかし、馬と接するようになり、私の心身の状態は大きく変化した。この過程で私は精神の不安が大きく改善し、身体的な健康も増進した。そればかりではなく、私は音楽活動をするようになり、自分の性自認に気づいて女性装するようになり、絵を描くようになった。子ども時代に自分自身に対して封印していた多くのことを、蘇らせることができたのである。
 もちろん、その過程でカウンセリングを受けたこともあるが、人間が人間を癒やすのは、限界があると感じた。そしてセラピストや精神科医は、自殺率が非常に高い、と知って、なるほど、と納得したことがある。人間の苦悩を人間に手渡すことには、大きなリスクが伴っている。
 

<選挙でなぜ馬をするのか>

 現在の日本の選挙の方法は暴力的である。街宣車で名前を連呼し、大音量のスピーカーで一方的にスローガンを叫ぶ、という行為は、多くの人が嫌っている。それは、本質的に一方向の情報発信であり、暴力性を帯びているからである。
 私が馬を用いて選挙をするのは、この暴力性を打破するためである。馬のいる空間は、景色が一変し、たとえ都市においてさえ、記号性を打破し、世界の自由度を回復させる。馬は、私たちの命を生かしている神秘の力への気づきを与えてくれる。この生きる力の泉に人々が引き寄せられ、その神秘への敬意を取り戻す機会になってほしい、と考えている。
 議会制政治において、政治家であるための条件は、選挙に勝つことである。それゆえ、政治の能力ではなく、選挙に勝つかどうか、がまず問われる。つまり、政治家の本質は、政治ではなく選挙である。それゆえ、どのような選挙をするか、は政治にとって決定的に重要である。選挙のやり方が変えることが、政治を変えることだ、と私は考える。
 その変革を、人間が起こすことは、難しい。それゆえ私は、今回の選挙で、馬に頼ることにしたのである。


【補足:馬で選挙をすることは、馬の虐待になるのか?】

・馬は野生動物であるから、家畜化すべきではない?
 野生動物としての馬は既に絶滅している。再野生化した馬もいるが、すべての馬は、家畜化を経ている。

・家畜動物の尊厳はどのように考えるべきか
 家畜動物は人間が自分に貢献させるために改変して生み出した動物である。家畜動物は、経済的な価値の人間による利用が、動物の命を凌駕するという原則がある。しかし、経済的利益があるからといって、動物の命を無意味に奪うことは、命の尊厳を傷つけ、ひいては、私たち人間の尊厳をも踏みにじることになる。それゆえ、倫理的にやってはならないことになる。
 しかし、この倫理的な線引きをどうするかについては、無数の議論がある。私はこれは、人の命を具体的に維持するために必要な事以外で、動物の命を奪うことは許されない、と考えるべきだ、と考える。これは、私たち人間が、他の命を奪わない限り生きていけない命である、という大前提の上に成り立っている。
 少なくとも、私たち人間の命の維持とは無関係に、享楽やお金や社会的成功のために命を奪うのは、あまりにも酷い暴力であり、命の尊厳を傷つける事になる。

・ペットの是非
 都市空間に生きる人間が、その精神的空虚を埋めるために、ペット動物に頼って生きる、ということは、上の原理から受け入れられることだと考える。しかし、ペットを買って無造作に捨てると言う行為は、命の尊厳を傷つけ、その人が尊厳が傷つけられていることを示す。
 この状態は、ペット産業という経済構造の一部となっており、その構造を変える政策が必要であると考える。同時に、既に傷つけられてしまった尊厳を癒す活動が必要となる。この構造変革を志向しないのであれば、動物と人間の尊厳を守ることはできない。

・動物園や水族館は正当化されうるのか?
 動物園や水族館は、野生動物を閉じ込めているのであれば、存在する意義はない。生き残る理由があるとすれば、絶滅に瀕する種の保存や、教育(=人間の生きる力の拡張)に寄与する、というところにのみ求められうる。


・競馬は馬を虐待しているか?
 現代日本における、馬を取り巻く最大の問題は、日本中央競馬会(JRA)だと考える。
JRAは、馬を生産し育成し、走らせ、その行為をギャンブルという形で、人々に提供しいる産業である。馬という美しく走ることのできる命を利用した産業であることは、すばらしいことであり、その馬は確かに本当に美しい。その馬を生産し育成し、鍛え、能力の限界を目指し、馬を走らせるというい仕事に従事する人も、とても素晴らしい。
 問題は、生産されたが馬が、無造作に殺されることを前提に、この産業が作られていることである。「経済動物だから、使えない馬は殺してもよい」というのがその正当化の言説である。走らなければ、殺す、というおそろしい原理で、競馬産業が支えられている、ということは、深刻な問題である。生産調整し、生まれてきた馬で競争する、という構造に変えねばならないが、これは、政治の力が必要である。


・選挙で馬を使うのは虐待か?
 馬は野生動物ではなく、人と生きることによって生きる動物である。であるならば、人間が行うどんな活動であっても、享楽のために無造作に殺されるという行為以外であれば、それ自体が問題になる、ということは、あり得ない。もちろん、馬を酷使したり、餌を与えないという虐待は問題になりうる。
 選挙で馬が活躍することは、馬の生命の維持や馬の精神的な苦痛を与える事にはならない。馬が人間と共に街を歩く、という行為が、馬に特別な苦痛を与える理由は考えられない。
 選挙で馬を使う前例は、私の知る限り、以下である。

2012年12月の第46回衆議院議員選挙で、京都1区の平智之議員が馬車を使用。
2015年4月、2019年4月の神奈川県平塚市議会議員選挙で、江口友子議員が馬を引いて選挙する。
2018年7月の埼玉県東松山市長選挙で、安冨あゆみ候補が馬を使用。

これらの先例で、事故が起きたことはなく、また、馬の健康に何らの問題も起きていない。
 今回は、これらの馬を使った選挙をサポートした経験豊富なグループに馬の運用を委託している。常時、2名のスタッフをつけ、馬の働く時間は実働4時間以内とし、かつ週に2日程度の休日を取り、健康管理に努めている。都市部を馬が歩くことによって、コンクリートによる熱問題や、馬の蹄の問題、排気ガスの問題や、人が多い場所でのストレス問題などは生じうる。
 蹄や熱の問題に関しては、2名のスタッフが、管理しており、馬の体調が悪くなる兆候が出れば直ちに対策を打てる体制になっている。過去に、体調不良が起きたことはなく、今回の選挙でも何ら問題はない。
 また、排ガスや人のストレス問題は、実際には解決する方法がないが、全く同じ条件で、人間が暮らしており、小さな子どもたちも暮らしている。当然、この環境は改善すべきだと考えているし、「子どもを守る」と言う今回の大きな目標からみても、馬にとって不愉快な環境で、子どもたちが暮らしていることに問題を感じている。そのことを人々に認識してもらうために、馬に頼っている、と言っても良い。
 都市を歩く馬を見て、可哀想だと感じることは、人間がこの環境で暮らすことが悲惨な現実だと気付くための最初の一歩になるはずである。そして、馬が本当に可哀想だと感じるなら、私たち人間も本当に可哀想だし、即刻この環境を変えるためのアクションを起こすべきである。
 もし、ここでアクションを起こさず、単に馬が可哀想と言っている人がいたら、それは、結局何も感じていないし、この暴力を容認していることになる。
 そういった隠された事実を露呈させるためのの支援を、馬がしてくれている。馬が都市を歩くことによって、環境による暴力が改善するキッカケになれば、馬のためにも、人のために、大きな意義があるはずである。
 これが、今回の選挙戦の一つの、目的である。
  1. 2019/07/11(木) 21:30:09|
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見たことのない選挙運動を展開するための、献金のお願い

馬を中心とした、見たことのない選挙をお見せします。
が、そのためには、最低、5百万円、必要です。

選挙の骨格の部分は、擁立する組織が支えてくださいますが、私が独自に構想する部分は、みなさまの献金で支えていただいて、自由にやりたいと思います。

献金はこちらからお願いします。

https://anmintei.net/contribution?fbclid=IwAR0KyqkhfXWTXx-PxRlG1S3FKn7BDhNAuAEWNfjmBM89WIivj95nA48dE6g


政治家であるためには、政治の能力は不可欠ではありません。
選挙に通ることが必要条件です。
つまり、本当は、選挙屋です。

私は選挙屋ではなく、選挙に通ることは目指していません。
政治のあり方を変えたいと思っています。
選挙のやり方が変わらなければ、政治は変わりません。
そのための実験を支えてください。


  1. 2019/06/29(土) 18:47:03|
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れいわ新選組から、参議院議員に立候補の意思を表明

記者会見の模様がアップされていますので御覧ください。



  1. 2019/06/29(土) 15:30:03|
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「経費500円で自作したスピーカーが、数十万円のスピーカーを超える驚異の音質?!」

「経費500円で自作したスピーカーが、数十万円のスピーカーを超える驚異の音質?!」 というテーマで記者会見を開きます。

1月9日から18日に、東京大学東洋文化研究所一階ロビーにて、「純セレブ文明の夜明け〜道(タオ)の思想に基づく非線形スピーカーのよろこび〜」展覧会を開催しておりますが、最終日前夜の17日午後5時より、展覧会を総括する記者会見を開催します。

これは、片岡祐介(音楽家)と安冨歩(東京大学東洋文化研究所教授)とが共同で開発している、画期的なスピーカー「純セレブスピーカー」を中心とした展覧会です。このスピーカーは、スピーカーユニットをダンボールなどの紙の函体にセットし、中に紙を詰める、という簡単なものですが、信じがたいほどに美しい音を出します。これは、単にスピーカーの展覧会なのではなく、現代文明の陥穽を抜け出す新しい文明を切り開く第一歩でもあります。この期間中にも多くの出会いがあり、多くの発見がありました。それらを総括して、現段階での知見を広くお知らせします。

また今回の展覧会で知り合った英国の著名な活動家 Raga Woods 氏と、純セレブスピーカーのマネジメントを委託している金田慶子氏とを招き、我々の開発したスピーカーと、その活動理念とを含めコメントを頂き、現代文明の根本問題をどのように乗り越えるか、についての提案をいたします。

純セレブスピーカーについての詳細は、以下をご覧ください。

https://jun-serebu.net/


  1. 2019/01/14(月) 22:10:18|
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